民國演義朱培徳、羊城に敵に勝ち、許崇智、福建に鏖兵す(第一四○回 朱培德羊城勝敵 許崇智福建鏖兵)

陳炯明の広州復帰と両広の混乱

  • 孫中山が上海へ去った後、陳炯明は八月十五日広州へ戻り、白雲山総指揮部で軍事会議を開催。葉舉・洪兆麟・尹驥・林虎らが軍費調達を求め、陳席儒を広東省長に、自ら粤軍総司令に復した。
  • この頃、李烈鈞は上海で養病、許崇智・黄大偉・李福林らは福建で王永泉・徐樹錚・臧致平と連携し李厚基を狙い、李明揚・朱培德・賴世璜らは広西へ、梁鴻楷は陳炯明に降った。
  • 広西では劉鎮寰が総司令を称する一方、韓彩鳳が柳州、梁華堂が桂林、陸福祥が桂辺を各々割拠し互いに服さず、陸榮廷は龍州で辺防督弁を称し、沈鴻英も贛南から班師を通電するなど、群雄割拠の様相を呈していた。

広西の争奪戦

  • 朱培德・李明揚・賴世璜らは湖南から広西へ入り桂林の梁華堂を攻略。梁華堂は柳州の韓彩鳳に応援を求めたが間に合わず敗退し、桂林は朱・賴の手に落ちた。
  • 折しも班師中の沈鴻英が桂林付近に到達。かつて北軍側だった沈鴻英は、この頃岑春煊の仲介で孫中山側と和解しており、柳州の韓彩鳳掃討に向かう。緒戦は苦戦したが、大隊到着後に反撃して韓彩鳳を大敗させ柳州を奪取。
  • 韓彩鳳は陸福祥と結んで柳州奪回に成功するが、沈鴻英が計略をもって夜襲・内応策を用い、再び柳州を制圧。捕らえた韓彩鳳は「もはや全軍潰滅の一凡人」として釈放された。沈鴻英はさらに陸福祥の処分を陸榮廷に要求したが、要領を得なかった。

陳炯明軍の広州撤退

  • 朱培德は梧州の劉震寰に陳炯明討伐・孫中山擁護の独立を働きかけていた。陳炯明は葉舉を総指揮に三十営を梧州へ反攻させ、滇桂粤連合軍は苦戦する。
  • 朱培德は沈鴻英に側面攻撃を頼み、陳軍後方の寝返り工作も進める。葉舉は梁鴻楷の内応、後方遮断を知り三水へ撤退、前線部隊は潰走した。
  • 広州の動揺が激化し、各団体が陳炯明に下野を迫る中、海軍総司令温樹德の連合軍側転向も伝わり、陳炯明は十二年一月十五日ついに下野を通電、恵州へ退いた。八月十五日の広州復帰からわずか五カ月であった。
  • 陳軍配下だった洪兆麟(元湘軍系)は汕頭で独立を宣言し孫中山・許崇智を歓迎、陳炯明への最後まで忠誠は示さなかった。

福建をめぐる攻防

  • 許崇智らは韶関敗戦後福建に入り、督軍李厚基を糾弾。徐樹錚が福建入りし、李厚基配下の旅長王永泉を許崇智と結ばせ、建国軍制置府の設立と李厚基への退去要求を突き付けた。
  • 李厚基は水口で王永泉と対峙する隙に、許崇智配下の黄大偉・李福林が福州を急襲し無血占領。李厚基は台湾銀行を経て軍艦に逃れ監視下に置かれ、残余部隊も海軍陸戦隊に鎮圧された。

制置府と各方の思惑

  • 許崇智・徐樹錚・王永泉は制置府体制を樹立し、王永泉を福建総撫とした。陳炯明と北京政府はこれを警戒し、陳炯明は洪兆麟・尹驥を援閩に派遣するが洪兆麟は汕頭で進軍を止めた。
  • 北京政府は徐樹錚を主敵とみなし、常德盛を援閩総司令、李厚基を討逆総司令に任じ入閩させた。薩鎮冰の助力で李厚基は南京へ逃れ支援を求めた。
  • 許崇智陣営は孫中山による討賊軍司令任命を受け、常德盛・高全忠への警戒よりも海軍の中立確保を優先する方針を固めた。
  • 許濟は杉関・光沢で常德盛軍と一進一退を繰り返す中、許崇智と徐樹錚は制置府の総撫制を改め、王永泉を総司令、林森を省長とする軍民分治に転換。しかし王永泉はこれを許崇智の差配と知り不満を募らせ、後の不和の種となった。徐樹錚は十一月二日福州を去った。
  • 李厚基は南京で齊燮元の支援を得て廈門で反攻を図るが、臧致平の旧部が高全忠を急襲し大敗させ、李厚基・高全忠は鼓浪嶼へ逃れた。常德盛軍も後方遮断の噂で杉関を放棄、許濟がこれを奪回した。

呉佩孚の介入と福建の落着

  • 屡戦屡敗の援閩軍に激怒した呉佩孚は孫傳芳を援閩総司令、周蔭人を総指揮に任じ、孫傳芳軍も江西経由で福建へ進めた。
  • しかし孫中山が許崇智を広東総司令に任命し許崇智軍が帰粤する中、王永泉は薩鎮冰・劉冠雄と連携し中央への服従を通電。孫傳芳もこれを受け中央へ伺いを立て、呉佩孚は討逆軍司令の廃止と援閩軍停止を中央に命じさせた。
  • 続けて北京政府は李厚基の召還、福建督軍職の廃止、王永泉の指名手配解除に加え、沈鴻英・楊希閔・林虎・陳炯明・鍾景棠らへの広東関連任命、孫傳芳・王永泉・臧致平らへの福建関連任命を次々発令し、事態は一段落した。

許崇智軍の帰還を巡る混乱

  • 広州では魏邦平を主任とする治安維持機関が設けられたが、海珠会議で朱培德が魏邦平のかつての陳炯明への与同を咎めて対立、滇桂軍は魏邦平を拘束しその部隊を武装解除した。
  • 沈鴻英は広州城外に布陣し孫中山の帰粤・善後主宰を歓迎する通電を出し、許崇智の急ぎの帰粤も促した。
  • 帰路の許崇智軍は大埔で洪兆麟軍と衝突するも、洪兆麟が交戦回避のため後退し通過を許した。しかし汕頭の尹驥は許崇智による商会への軍費要求(二十万)に激怒し攻撃を仕掛け、許崇智軍の広州直行は阻まれた。

評語

  • 陸榮廷・莫栄新が相次いで敗れ孫中山が広東へ戻った当初、西南の民も全国の人心も治世を待望し北伐の早期成就を望んでいた。しかし陳炯明の叛乱により革命事業は頓挫し、孫中山も一時広東を離れざるを得なくなった。以後数カ月、各派が桂・閩・湘・贛にまで及ぶ内紛を繰り広げ、離合と戦和の理由は当事者すら説明し難いほどであったが、民を害し財を損ない兵器を損耗させた事実は覆いようがない。この禍根はひとえに陳炯明の野心にあると言わざるを得ない。