民國演義宣言を発し国民党を改組し、北伐を急ぎ陳炯明攻めを緩む(第一五○回 發宣言改組國民黨 急北伐緩攻陳炯明)
陳炯明の窮地と援軍の空回り
- 広州で孫中山(孫文)に敗れた陳炯明は博羅方面に退き、呉佩孚に救援を求めた。
- 呉佩孚は沈鴻英・方本仁・陸榮廷らに広東への急行を命じたが、実際には誰も動かなかった。
- 沈鴻英はこの頃すでに中山への帰順・広西への回帰を考えており、呉の命令に従う気がなかった。
- 方本仁は江西督軍の地位を狙っており、江西を離れられなかった。蔡成勳も方に武器弾薬を渡さなかった。
- 陸榮廷は広西の一部を保つのみで遠征する余力がなかった。
- 湖南の唐生智も呉の命令を受けたが、新派で本来北軍に反対の立場であり、実力もまだ整っていなかったため動かなかった。
- 結局陳炯明への実質的な援軍は一つも来なかった。
陳炯明の離間策と国民党改組への注力
- 窮した陳炯明は、楊希閔・劉震寰麾下の滇軍・桂軍に離間工作を仕掛け、進撃停止や中山からの離反を誘い、これは一定の効果を上げた。
- 折しも中山は国民党の全面的な改組に力を注いでおり、東江戦線への関心が薄れ、戦局はいったん膠着した。物語もここで東江戦線を措き、国民党改組の経緯に移る。
国民党改組の経緯と第一次全国代表大会
- 発端は高一涵が『努力』週報に掲載した、国民党の構成員が雑多で組織が不適切だとする改組提案。中山はこれに賛同し、汪精衛らに準備させた。
- 民国十二年秋、広州で党員による懇談会を開き、翌十三年一月二十日に第一次全国代表大会を招集することを決定。代表は各省党員による選挙三名と総理指名三名。
- 中山はあわせて改組宣言を発表。要旨は次の通り。
- 同盟会以来二十年、秘密結社から公開政党へと歩んできたが、辛亥革命後も袁世凱の帝政、各地の軍閥割拠、政客の腐敗が続き、これまでの革命は実質的に失敗と言わざるを得ない。
- 中国を立て直すには、主義・組織・訓練を備えた政党が民衆を導く必要がある。そうでなければ民衆は軍閥や帝国主義の犠牲になるほかない。
- 従来組織・訓練が不十分だったために成果が上がらなかったとし、総理指名の九名による臨時中央執行委員会を設けて改組に着手し、党内外の代表会議で党綱・党章を審議すると宣言した。
- 一月十九日に準備会、二十日から正式な代表大会が開かれ、十日間の会期を経て一月三十日に閉会。会期中に党章改正・政綱決定・宣言発表が行われた。
- 宣言は「中国の現状」「国民党の主義(三民主義)」「国民党の政綱」の三部からなる。
- 「中国の現状」の要旨:革命は甲午戦争後に芽生え庚子事変で盛り上がり辛亥に至って清朝を倒したが、革命政府は実質的には民族解放にとどまり、まもなく反革命勢力(袁世凱)と妥協せざるを得なくなった。この妥協が第一次失敗の根源であり、当時は民衆を導く組織的な政党が無かったためだとする。
- 袁世凱死後も革命は失敗を重ね、軍閥の専横と列強帝国主義の結託によって内乱が続き、民権も実業も伸びず、中国はますます半植民地化した。中間層・小商工業者・農民の困窮も進んでおり、国民党は国民革命による三民主義の実現こそ中国の活路であるとして、改めて政綱を発布する。
- 政綱(要旨)
- 対外:不平等条約・領事裁判権・関税自主権侵害の撤廃と平等条約への改定、特権放棄国への最恵国待遇、対中不利な条約の見直し、外債の返済保証、庚子賠款の教育費への充当、賄選政府の借款を人民の責任としないこと、外債返済策を協議する会議の招集。
- 対内:中央・地方の均権主義、省による自治憲法制定と省長公選、県を自治単位とし直接選挙・創制・複決の権利を認めること、土地収益・鉱産等を地方財源とし国家が援助すること、県の中央への納付割合の上下限、普通選挙制の実施と資産による階級選挙の廃止、試験制度の整備、集会・結社・言論・出版・信仰の自由の確立、募兵制から徴兵制への移行と下級軍人の待遇改善、田賦地税の法定外徴収(厘金等)の廃止、戸口調査と食糧需給の調整、農村組織の改良、労働法の制定と労働団体の保護、男女平等の確立、義務教育の普及と教育費の確保・独立、土地法・土地使用法等による地価に基づく課税と必要に応じた買収、鉄道・航路など独占的事業の国家経営。
- あわせて国民政府組織案を可決し、汪精衛・胡漢民・廖仲愷ら二十四名を執行委員、五名を監察委員に選出。今回の改組最大の変化は共産党員・共産主義青年団員の入党を認めたことで、精神的には刷新となったが、馮自由・謝英伯・劉成勳ら旧来の党員は強く反発し、党の「赤化」や新旧対立の噂が外部に広まった。
- 中山は彼らの反対を大会決議・党紀に反するものとして中央執行委員会に告発。馮自由らはこれ以上強く出られず、委員会で弁明するにとどまり、事態は収束した。
財政問題と関余交渉
- 党改組の問題が片付くと、中山は改めて東・西・北の三方面の戦事に全力を注いだが、財政難に加え関余(関税余剰金)問題が立ちはだかった。
- 北京の外交団は軍艦を派遣して威嚇したが、中山は一歩も譲らず強硬に交渉を続け、最終的に米国公使の仲介により平和的に解決した。
各戦線での離反と東江作戦の停滞
- 東路では蔣緒亮麾下の滇軍・王秉鈞師が陳炯明の調略を受けて叛き陳側に投降。
- 西路では陳天太の部隊が広東籍の各軍によって武装解除された。
- 北路では高鳳桂の旅が誘われて北方に帰順し、趙成梁の滇軍も二個団が北軍に引き抜かれた。
- 中山側の陣営内部の結束力の乏しさが露呈する一方、陳炯明の内部でも洪兆麟・林虎が離反を噂される不安定さがあった。
- 桂派の旧人・沈鴻英は広東北辺で進退窮まり、兵糧の補給も絶え、広西に戻って陸榮廷を倒し地盤を得ることを目論み、たびたび代表を送って中山に投降を打診した。
- 中山は沈の裏切りの多さから信用しきれず、ちょうど全国代表大会の決議に基づき黄埔軍官学校を創設したばかりの蔣介石に相談。蔣介石は「沈鴻英の言葉は信用できないが、四面楚歌の彼を追い詰めすぎるのも良くない。投降を認め、条件として直ちに陸榮廷討伐に向かわせれば、西征軍を東江戦線に振り向けられる。後日また叛いても大した憂いではない」と進言し、中山も同意した。
- 沈鴻英の代表に投降を認めたが、広東領内に留まらせず即日西進させる条件をつけ、沈もこれに従って梧州へ向けて陸榮廷討伐に出発した。
東江三方面攻勢とその頓挫
- 西方の憂いが去ったため、中山は東江への攻勢に専念し、中路の楊希閔(滇軍)が博羅へ、劉震寰(桂軍)が広九鉄路方面へ、譚延闓(湘軍)が龍門へと三方面から進撃した。
- 陳炯明は洪兆麟部が閩南で臧致平・楊化昭と交戦中で本国の兵力が手薄だったため抵抗せず後退し、楊希閔は博羅を占領、劉震寰も樟木頭・淡水などを落とし恵州城外の飛鵝嶺に進出、湘軍も河源に深入りして恵州を包囲した。
- 中山は勝機とみて楊希閔に恵州突入を、劉震寰に一部を恵州監視に残し残余を海陸豊経由で恵州の後方を断つよう命じたが、楊・劉の両軍は占領地に満足して進撃を止めてしまい、湘軍のみが梅県方面へ孤軍で深入りする形になった。
- 陳炯明は楊・劉が進まないと見切り、中路・左路の精鋭を北路に回して湘軍を攻撃。林虎は誘敵の計で湘軍を包囲し、湘軍は千余の銃器を失いながらも辛くも突囲した。陳軍はさらに前進したが湘軍の反撃で辛うじて食い止められ、陳軍も兵力不足で反攻は続けられなかった。
- その後、閩南で臧致平・楊化昭に勝った洪兆麟も広東に帰還したが、決戦に加わろうとせず、双方は再び膠着状態に陥った。
北伐への転換
- 九月中旬、江浙戦争(東南方面の戦事)が勃発すると、盧永祥は広東に代表を送り中山に北伐を要請。中山は反直隷同盟の立場から快諾し、「曹錕の憲法蹂躙・賄選は前から北伐の理由と考えていた」と述べた。
- 曹錕はすでに黎元洪を追い落とし、多額の金で国会を買収して大総統に就任しようとしていた(詳細は次回)。盧永祥はこれに反対して討曹を通電しており、中山にとっても救国救民の主張を貫くには北伐・討曹が避けられないものだった。
- 江浙戦端の報を受け、中山は自ら韶関に赴いて北伐の指揮を執ることとなった。
評語
民国以来の軍閥割拠は唐代の藩鎮に似るが、藩鎮が数十年続いたのに対し軍閥は一敗すれば潰えやすい。その理由は、軍閥の力が弱小部隊の吸収による寄せ集めにすぎず、主義も宗旨も持たない「雑色部隊」だからである。本回で描かれた楊希閔・劉震寰の占領地への安住と進撃停止は、陳炯明に態勢を立て直し湘軍への集中攻撃を許す隙を与え、陳の延命を招いた。これは楊・劉が革命の基幹部隊ではなく一時利用できるにすぎない存在だったためである。後年、蔣介石が北伐に際し主義なき寄せ集め部隊の編入を拒み、黄埔で鍛えた精鋭のみを頼みとしたからこそ大業を成し得た。もし蔣がわずかでも私利を図り軍閥的な振る舞いを見せていたなら、たとえ良い部隊を擁していても同じようには機能しなかったであろう。