民國演義第一二六回 岳州を取り呉趙鏖兵し、会戯を演じ陸曹艶を争う (取岳州吳趙鏖兵 演會戲陸曹爭豔)
呉佩孚九死一生
汀泗橋で督戦中の呉佩孚のすぐ側に砲弾が落ち、衛隊は全滅したが呉自身は数歩の差で無事だった。返り血と土埃にまみれながらも顔色一つ変えず陣頭に立ち続けたことで、かえって全軍の士気が奮い立った。両軍はやがて弾薬を撃ち尽くし白兵戦に移り、鄂軍の援兵が到着すると湘軍は死傷者夥しく退却、直軍は汀泗橋を奪回する。この二日間の戦闘で両軍合わせて七、八千の死傷者を出した。
岳州占領と和平会議
第二十四師長張福来が海軍と連携して城陵磯を奪取したとの報が入り、呉佩孚は岳州へ進撃、抵抗なく入城する。呉は「隴を得て蜀を望む」ような窮兵黷武を望まず、旧知の趙恒惕とのこれ以上の戦いを避けて和平解決を図る意向を示す。蕭耀南や南北代表(張一麟・張紹曾ら)を交え岳州で和平会議が開かれ、岳州・臨湘は湖北軍管轄、平江・臨湘以南は湖南軍管轄とし、趙恒惕の地位保留と両湖聯防継続の四項目が協定された。湘鄂の民は戦禍が収まったことに安堵する。
宜昌方面の川軍撃退
呉佩孚は聯省自治の推進を志しつつ、四川軍が宜昌に侵入しているとの報を受け自ら救援に赴く。施宜鎮守使の内応もあって囲みを破り、劉湘配下の但懋辛・藍文蔚らの川軍一万余と交戦、呉の威名に気圧された川軍は緒戦で潰走し重慶へ退いた。呉は深追いせず、防衛を固めさせて帰還した。
呉佩孚の人物評
両湖を制した呉佩孚の威名は天下に轟いた。私生活では阿片・女色・賭博などの悪習がなく治軍も厳格で、幕僚と詩を作り剣を試みるなど古の儒将の風があったが、武力への過信が後年の破滅を招くことになると作者は惜しむ。
曹錕・呉佩孚の微妙な関係
曹錕は呉佩孚の勢威が増すにつれ内心穏やかでなかったが、互いに表面上は殊更丁重に接し続けた。折しも曹錕の六十歳の誕生祝いが近づき、四省経略という高位に上った曹は盛大な祝賀を計画する。当初反対しそうな呉佩孚も、あえて先んじて祝電を送り自ら保定に赴く姿勢を示し、曹は上機嫌になる。
曹錕の寿宴と劉喜奎への未練
曹錕は北方の名優を集めた大堂会を催し、梅蘭芳ら四大名旦をはじめ豪華な演目に大金を費やす。しかし当代随一の名妓として鳴らした劉喜奎の姿がないことに、かねて彼女に執心していた曹錕は物足りなさを覚える。
劉喜奎をめぐる曹錕と陸錦
劉喜奎はかつて陸軍次長陸錦に後援されて名を上げたが、心では陸を疎んじていた。前回の曹錕の寿宴に陸が喜奎を連れて堂会に出た際、曹はすっかり喜奎に魅了され内院に招き入れてしまう。困り果てた陸が未練を残して逗留する中、曹の正室夫人が事情を知り、喜奎を問い詰めると、喜奎はとっさに「すでに陸大人という夫がいる」と偽り、これを信じた夫人は喜奎を放免して京へ送り返させた。事情を知らぬ陸錦は自分と喜奎が正式な仲になったものと勘違いして大喜びし、喜奎邸に駆けつけるが、取り次ぎの者に「休養中で客には会えない」と体よく断られる。
評語
戦いは気勢によるもので、呉佩孚が趙恒惕に勝てたのも一に気の盛んさゆえである。しかし気が盛んになるほど心は驕り、これは成功の裏にひそむ衰えの兆しでもある。この後、呉は連勝に驕って武力による中国統一を志すが、驕りの極みは衰竭の予兆にほかならず、その迷夢が覚めぬうちに功業は崩れてしまう。読むほどに感慨を禁じ得ない。