民國演義第一二五回 趙炎午、兵を起こし鄂を援け、梁任公、函を馳せ呉に勧む (趙炎午起兵援鄂 梁任公馳函勸吳)

王占元の私腹と鄂軍の反乱

湖北督軍王占元は中央を脅して軍餉三百万元を得ながら、その七、八割を上海・大連の外国銀行に隠し、部隊にはわずかしか回さなかった。長らく欠餉に苦しんでいた武昌・宜昌の将兵はこれに激怒し、放火・略奪を伴う兵変を起こす。占元は軍を出して鎮圧したが、商民の被害は数千万に及び、各界は連名で中央に王督の処罰を求めた。

蔣作賓の調査と趙恒惕への出兵慫慂

中央は蔣作賓を武昌に派遣して真相を調べさせた。作賓は占元の不法を確認して忠告したが、占元は曹錕・張作霖の後ろ盾を恃んで反発した。作賓は湖南に赴き、湘軍総司令趙恒惕に対し、隣省の惨状を見過ごさず出兵して民を救うよう説いた。恒惕は当初、広西方面の情勢(陳炯明と桂軍の抗争)を懸念して逡巡していたが、広西情勢が落ち着いたこと、部下の多くが湖北出身で王占元への恨みが深いことから出兵を決意する。宋鶴庚を援鄂総司令、魯滌平を副司令とし、三路に分かれて鄂南へ進撃させた。

三路進撃と羊樓司・趙李橋の攻防

王占元は孫傳芳を前敵総司令に任じて迎撃させ、曹錕・張作霖ら各方に応援を求めた。呉佩孚は蕭耀南の一師を南下させると約束し、自ら督師する構えも見せたため占元は大いに喜んだ。しかし湘軍は勢い盛んで、羊樓司で孫傳芳軍と激戦の末、地雷を用いて湘軍に打撃を与えるも自軍も後退。趙李橋では突然の南風で鄂軍の砲隊が機能せず敗退し、湘軍が奇襲・夜襲を得意として鄂軍を苦しめた。占元は各省に援軍を催促する一方、四川の劉湘にも宜昌方面からの出兵を働きかけ、劉湘も軍を出した。

蕭耀南の日和見と王占元の失脚

呉佩孚配下の蕭耀南は援軍を求められても金品を得るだけで動かず出兵を渋り、他の援軍も互いに様子見を続けた。湘軍は蒲圻・咸寧へと迫り、鄂省防衛の要地はほぼ失われた。形勢を悟った占元は家族と財産を先に脱出させ、司令部の予備金五百余万も密かに山東の郷里へ送った上で、中央に辞職と自己弁護の電文を送った。中央は占元の本兼各職を免じ、蕭耀南を湖北督軍、呉佩孚を両湖巡閲使に任命し、呉の思惑通りに事は運んだ。

湘鄂和議の成立と決裂

呉佩孚は趙恒惕と条件交渉に入り、王督下野・湖北自治を掲げて和平を図ろうとし、一時は和平の空気が広がった。しかし出兵した湘軍諸将は戦功・実利を得られぬまま終戦することを潔しとせず、宋鶴庚が条件拒否を表明したため和議は破れ、戦端が再開する。呉佩孚は一週間以内の岳州奪回を号令し、自ら前線に出て精鋭三師と海軍を投入、湘軍の中夥舖・新堤・嘉魚・簰州の要地を次々に奪う。簰州では堤防を決壊させて湘軍と沿岸住民を大量に溺死させ、この「水攻め」は湘省の人心を呉から離反させる結果を招いた。

梁啓超の書簡

呉佩孚が咸寧方面への進撃を計画していた矢先、梁啓超(任公)から長文の書簡が届く。内容は、現政権を武力で支えても人心は離れる一方であり、輿論の支持こそ真の力であること、段祺瑞の轍を踏むなと戒め、湘軍との和解と聯省自治による国是の刷新を勧め、私怨による内争より対外の国難に力を注ぐべきだと諭すものであった。呉佩孚はこの手紙を読んで茶碗を取り落とすほど動揺し、大切に保存するよう命じた。

汀泗橋の激戦

呉佩孚は前線を視察し、汀泗橋・官埠橋・咸寧一帯の地形を頭に入れた上で自ら督戦する。趙恒惕も陳嘉佑・易震東・葉開鑫らを率いて官塘駅で応戦し、両軍は昼夜を分かたぬ激戦を繰り広げる。夜半、湘軍は決死隊五百を便衣で汀泗橋側面に回し奇襲、直軍は浮足立ち靳雲鶚の第八師は全滅、辛うじて董政国の一旅が防線を支えた。湘軍は汀泗橋を占領するが、呉佩孚は退却した営長を自ら斬って全軍を叱咤し、直軍は反攻に転じる。まさにその時、空中から飛来した砲弾が呉佩孚の側にいた衛隊を粉砕した。

評語

呉子玉と趙炎午はともに将才があり精鋭を擁し、しかも旧知の間柄でありながら、意気を捐てて協力すれば国のために大いに為すことができたはずなのに、内争に全力を注いで互いに傷つけ合った。梁任公の書を読むにつけ、二人の功名のためにも、また中華の国運のためにも惜しまれる出来事である。