民國演義第一二四回 疑案重々として督軍自戕し、積金累々として巡閲民を殃う (疑案重重督軍自戕 積金累累巡閱殃民)

潮梅陥落と桂派の動揺

劉志陸が広州に留まり油断している間に卓貴廷が戦死し、潮州・梅州一帯は陳炯明の手に落ちた。莫栄新は郭椿森を用いたことを悔やみ、林虎・馬済を右翼、沈鴻英・李根源を左翼として反攻を命じるが、これは実力者同士(馬済と沈鴻英)の衝突を避けるための苦肉の配置に過ぎず、実効は乏しかった。

李福林・魏邦平の独立

広東人勢力の李福林・魏邦平は、桂派に排斥される不安から陳炯明と通じ、魏邦平が莫栄新から借り受けていた軍艦を握ったまま独立を宣言。中秋の夜、省城で武装蜂起し、督署・省署・軍政府に爆弾を仕掛けるなど攪乱工作を行った(軍政府では衛兵に発見され不発)。虎門要塞の司令も寝返り、海軍も中立を宣言するなど、莫栄新側の劣勢は決定的となった。

桂軍の総崩れ

折しも湖南の譚延闓軍が韶関方面を衝いたため、前線にいた沈鴻英は自軍の本拠を案じて独断で撤退、李根源も追随し、林虎・馬済も戦線を離脱した。統制を失った桂軍は略奪を働きながら潰走し、数年かけて蓄えた実力を事実上失った。

莫栄新・岑春煊の下野

莫栄新は「もはや大勢は決した」として下野を決意し、軍政府総裁岑春煊も説得されて同調、中央への引き継ぎを表明したうえで上海へ退いた。莫栄新は上海で借家住まいとなり、のちに魏邦平から詫び料として五千元を受け取るなど、他の軍閥に比べればまだしも清廉との評があったと語られる。

陳炯明の広東入りと孫文の帰還要請

陳炯明は広州入りし、廃督を名目に自ら省長を称するとともに、上海にいた孫文を迎えて大元帥府を組織し、広西の陸栄廷・譚延闓らへの反攻を図ろうとした。出兵前の占いにあった「内なる者が勝つ」の「内」は広東人を指していたのだと、後になって皆が気づいたという後日談が添えられる。

陝西督軍・閻相文の自殺

話は北方に転じる。安福系の陝西督軍陳樹藩が更迭され、後任の閻相文が兵を率いて赴任するが、陳樹藩は抵抗し交戦となった。中央からの援軍でようやく陳樹藩を退け西安に入城した閻相文だったが、半月後、督署内で忽然と死亡しているのが発見された。拳銃による自傷で、遺書には「国事を憂い、無能を恥じて自ら死をもって天下に謝す」との文言があった。実際には愛妾の不義が背景にあったとの噂もあり、李純の一件と同様、真相は曖昧なまま処理された。

呉佩孚の台頭と王占元の転落

閻相文の死後、馮玉祥が陝西督軍代理となり直隷派の勢力はさらに拡大した。一方、湖北を七年支配してきた王占元は蓄財に走り民や部下の怨嗟を買っていたが、自身の地位を守るため曹錕・張作霖に接近し、特に呉佩孚には殊更にすり寄った。しかし呉佩孚は内心王占元を見下し、いずれ自ら湖北を制する野心を抱いていたため、うわべだけ親しく振る舞った。王占元は曹・張とともに上京し、未払いの軍餉六百万元の支給を執拗に求め、結局中央から三百万元を工面させることに成功し、意気揚々と湖北へ帰った。

評語

莫栄新に始まり王占元に終わるこの回は、いずれも失敗した軍閥でありながら、一方は人々にまだ一定の理解を得、一方は全国から憎まれた対比を描く。財を貪り続けて飽くことを知らぬ武人たちへの慨嘆が記される。