民國演義第一二〇回 旧約を廃し露租界を収回し、余生を拚げ李督軍驚き逝く (廢舊約收回俄租界 拚餘生驚逝李督軍)

北方軍閥の返電

北方各省の軍閥は唐継堯・劉顕世の通電に対し、曹錕・張作霖連名で滇黔(雲南・貴州)へ返電した。文面は和平と統一を尊重すると謳い、法律問題の解決には国会問題を根本とすべきこと、対外関係では民意に従うべきことなどを述べ、和議の早期妥結を望むとした。

和議進展せず

一見穏当な文面だが、実質は南北双方の主張が噛み合っていなかった。北方は新旧国会の解散を望むが、南方(旧国会派)は承服しない。段派が去っても北方はなお軍閥支配であり、南方は徐世昌総統の正統性も認めていない。総統改選なしには和平は望めず、通電を交わすだけで進展しなかった。

湖南の兵変と張敬湯の処刑

湖南第七師などが武穴で騒擾を起こしたが、馮玉祥が鎮圧。首謀格の張敬湯(張敬堯の兄弟)は湖北督軍王占元により捕らえられ、中央の許可を得て処刑された。張敬堯旧部の混成旅長劉振玉らも各地で略奪の罪により処刑された。保定・通県・兗州などでも小規模な兵変があったが鎮圧された。

張勲の弁明

段祺瑞の檄文で「曹錕が張勲の出京を助け復辟を企てた」とされたことに対し、天津に住む張勲が通電で弁明した。すでに老いた身であり、非難は世間の物笑いを増やすだけだと語り手は評する。

外蒙古の動揺とロシア租界の回収

外蒙古では自治取消し後も不穏な動きが続き、独立を企てる事件が発生したが鎮圧された。折しもロシア新政権は国際的に未承認で、列強の勧めもあり中国政府は駐華ロシア公使領事の待遇停止を通告。ロシア公使は抗議したが、各国公使は異論を唱えず、天津などのロシア租界は次第に中国側が回収した。ロシア商人がフランス国旗を掲げて回避しようとしたため、外交部はフランス公使に事情を照会し、最終的に中東鉄路も中国管理下に移された。ロシア公使庫達攝福は代表権を失ったまま北京に居住することとなった。

江蘇督軍李純の苦境

江蘇では督軍李純が、南北和議が進まぬことに心を痛め持病を悪化させていた。腹心の江寧鎮守使斉燮元を頼りにしていたが、段派失脚に伴い安徽督軍倪嗣衝が引退、後任に張文生が就く一方、李純には長江巡閲使の兼任が命じられた。李純は辞退を願い出たが認められず、代わりに蘇皖贛巡閲使(斉燮元を副使)に任じられた。しかし江西督軍陳光遠は李純の指揮下に入ることを拒み、新任の安徽督軍張文生も服さず、江蘇の紳士層からも冷遇された。

財政庁長人事でも紛糾し、俞紀琦の不評から王克敏を推したが猛反発を受け、結局王瑚が省長に就任。さらに李純が財政庁長に推した張文龢は、李純に取り入って義子同然の扱いを受けていた人物で、その私情人事に江蘇の世論が激しく反発した。江蘇公民や南匯公民から大総統・国務院宛てに、李純と張文龢を弾劾する激烈な電文が相次いだ。

李純の自刃

世評に日々傷つけられた李純は、実弟桂山に財産処分を細かく言い残し、義弟にも「督軍も務まらぬ、お前の営長も長くない」と暗い言葉をかけるなど、様子がおかしくなっていた。十一日、修理に出していた拳銃を取り寄せ、夕方には新聞の批判記事を読んで号泣し、「名誉は第二の生命、これを汚されて生きる意味はない」と嘆いた。斉燮元らが慰めに訪れても言葉を発せず、夜には秘書に電文の口述をさせ、斉燮元に督軍代理を託す旨を伝えさせた。その後、書簡を数通したためて就寝。深夜、異音がして王夫人が目覚めると、李純はすでに絶命しており、軍医が駆けつけたときには手遅れであった。享年四十六、子はなかった。

死の真相は謎に包まれ、仇による暗殺説や妻妾の不義との関係も噂され、幇辦の斉燮元にも疑いの目が向けられた。遺書や中央からの恤典は次回に持ち越される。

評語

ドイツ租界に続きロシア租界も回収できたのは中国の一つの好機であったが、国内は軍閥の争いが絶えず、統一も改革も進まない。李純は軍閥の中では比較的まともな人物とされ、その死には和議不成立や江蘇人の反発だけでは説明のつかない特別な事情があったはずだと語り手は述べ、軍閥一般への反省を促している。