民國演義第一一九回 日公使、衆罪犯を保留し、靳総理、両親翁に会敘す (日公使保留眾罪犯 靳總理會敘兩親翁)
段派関係者の処分続行
- 総統は段派への処分を続け、湖南督軍兼長江上流総司令・呉光新を罷免し、その軍は王占元に収束させた。京師警察総監・呉炳湘も徐樹錚一派への荷担を理由に官職・勲章を剥奪された。
- 八月三日、安福倶楽部の解散を命じる令が発せられた。政党結社は本来自由だが、徐樹錚・曾毓雋らの兵乱の主要な担い手であったことを理由に、京師衛戍総司令・歩軍統領・京師警察廳に解散を実行させ、加担証拠のない一般党員は不問とした。
王揖唐の弾劾と追加処分
- 江蘇督軍・李純を新たな南北議和全権総代表とし、旧代表・王揖唐は罷免。李純は王揖唐が党員を使い金銭で江蘇の軍警・匪賊を買収し揚州・鎮江での擾乱を図った証拠があるとして弾劾電を送り、総統は王揖唐の官職・勲章剥奪と厳重逮捕を命じた。ただし王揖唐は上海租界に潜み、中国の法権が及ばず事実上の法外自由の身であった。
- 続いて安福倶楽部関係者(方樞・光雲錦・康士鐸・鄭蒐瞻・臧蔭松・張宣ら)と、涿州降伏の曲同豊・陳文運・魏宗瀚・劉詢・張樹元ら軍人についても、官職・勲位の剥奪と厳重処罰の令が出されたが、いずれも津・滬の外国租界へ逃れ、実効性のない「紙の命令」に終わった。
日本公使との引渡し交渉
- 曹・呉は特に徐樹錚らの日本使館からの引渡しを強く求め、総統は外交部を通じ英・米・仏に照会したが、いずれも自国は該当者を収容していないと回答。日本公使には収容の事実があり、「国際慣例と中国の先例により、政治犯として保護に踏み切った」との公式回答があった(保護対象は徐樹錚・曾毓雋・段芝貴・丁士源・朱深・王郅隆・梁鴻志・姚震・姚国楨の九名)。
- 外交部はこれに抗議し「調査完了後に犯罪証拠をもって引渡しを求める」と伝えたが、日本公使は「政治犯として保護しており引渡しはできない」と重ねて拒絶。結局、逮捕は事実上不可能となった。
直奉の縁組と国民大会構想
- 直奉両派は段派打倒で結束を強め、張作霖・曹錕は互いの庶子・庶女を婚約させ、盛大な結納の儀を執り行った。
- 呉佩孚は時局収拾のため「国民大会」構想を提唱し、名称・性質(官の監督を受けない国民自主招集)・宗旨(国民自決による統一・憲法制定等の解決)・会員(各県の農工商団体からの選出)・監督・事務所・経費・期限の八条からなる大綱を発表、南北新旧国会と議和代表の全廃、諸懸案の国民公決を主張した。
- この構想自体は理にかなうものであったが、袁世凱の帝制運動や徐樹錚の安福部専横も同様に民意を無視した結果失敗した先例に鑑みても、結局は曲高和寡に終わり、段派打倒後も実権は依然として曹・張ら武力主義者の手にあり、実現しなかった。四川・雲南・貴州・広西・広東など西南諸派も内部抗争を繰り返し、国民の願う統一・民権の実現は遠い先の話であった。
靳内閣の再建と直奉の親善
- 段派失脚後、靳雲鵬が再び国務総理に起用され、顔恵慶(外交)・張志潭(内務)・周自齊(財政)・董康(司法)・范源濂(教育)・王乃斌(農商)・葉恭綽(交通)ら閣員も定まった。靳は安福部残党の不問(脅従罔治)を総統に働きかける一方、南北統一に向け曹錕・張作霖を招き会談、両巡閲使(四川・広東・湖南・江西の各経略使廃止に伴い曹錕は直魯豫巡閲使、呉佩孚がその副使に昇任)と協議した。
- 張作霖は呉佩孚の国民大会構想を「政府に権限があるのだから不要」と批判し、靳もこれを呉に伝えて構想は立ち消えとなった。この一件が呉と張の対立の始まりとなり、後の武力統一路線につながっていく。南北統一の方針自体は靳・張・曹の合意のもと各省代表を集めて協議されたが、実質は形式的なものにとどまった。
南方の分裂と雲南・貴州の意見表明
- 南方でも軍閥間の対立は深刻で、旧国会の一部議員が広東を離れ雲南で独自に国会を開き岑春煊の政務総裁職を取り消し貴州督軍・劉顕世を補選するなど、三つの国会が並立する混乱ぶりであった。
- 靳総理と李純の勧めもあり、唐継堯・劉顕世は連名で通電を発し、(甲)南北和平は正式和会で解決すべきこと、(乙)督軍制の廃止・軍隊の削減と国防事務への一本化・地方自治の確立を通じた民治の実現、を主張した。理路整然とした内容で、北方の一部軍閥からも同調の返電が寄せられた。(詩的対句:口先だけの高論と実践の乖離を皮肉る一節)
評語
- 民国以来、法律は権威を失い、功を偽って賞を求める者が絶えぬ一方、国を誤る大罪を犯した者は法の裁きを逃れ続けている。日本公使が九名を保護し引渡しを拒んだ一件は、中国の刑律から見れば看過できぬはずだが、罰せられぬ以上、乱を起こす者は後を絶たない。
- 呉佩孚の国民大会構想は志こそ立派だが、言うは易く行うは難く、周囲に足を引っ張る者が多く実現には至らなかった。靳雲鵬の南北統一策も、雲南・貴州の意見表明も、それぞれ理にかなってはいるが、結局は「言行不一致」に帰着すると評される。