民國演義第一一三回 日使に対し迭に交渉を開き、魯案の為に公議し書を復す (對日使迭開交涉 為魯案公議復書)
学潮の広がりと政府の弾圧
山東(魯案)・福州(閩案)両案とも未解決のまま、天津・北京はじめ各地で学生運動が続く。天津省長は学生の面会要求を拒み衛隊で弾圧、天津の学校は全校休校となる。北京の学生代表は国務総理靳雲鵬に面会するが要領を得ず、演説行動をとった学生は軍警に一時拘束される。政府は学生の政治介入を禁じる厳しい命令を発し、学生連合会・教員連合会の解散も布告するが、運動は収まらない。
各地の対日交渉案件
吉林でのロシア境からの朝鮮人越境逮捕、日本軍艦の内河侵入、満洲里駅の占拠、蘇州での日本人による中国兵射殺、ウラジオストクでの華僑迫害、海拉爾での日本・チェコ両軍衝突による中国兵の被弾、ハルビンでの中国軍営房の占用、中東鉄路沿線への増兵、山東での無断電柱設置など、次々に日中間の紛争案件が発生する。蘇州事件は加害者の処罰と賠償で決着するが、他の多くは解決を見ない。
山東問題の最終通告と呉佩孚の主戦論
日本公使は山東権益の継承をすでに確定した事項として扱い、直接交渉に応じなければ日本の要求を黙認したとみなすとする強い通告を送ってくる。国務総理靳雲鵬は湖北督軍王占元名義(実質は第三師長呉佩孚が主導した連名電)の直接交渉反対の電報を大衆に示す。呉佩孚は山東出身、保定武備学堂卒業後に曹錕の第三師に属し、湖南攻略で功を挙げて実質的な指揮権を握った実力者で、親日路線の段派に強く反発していた。かつての師である靳雲鵬も呉の意向を無視できず、日本側への回答は直接交渉を明確に拒む内容となる。
南北和議の停滞と王揖唐襲撃未遂
北方総代表王揖唐は上海に滞在するが、南方総代表唐紹儀とは正式な交渉に至らない。徐世昌は南北統一を促す通電を発するが進展はない。ある夜、王揖唐の宿舎(愛儷園)で爆弾が発見されるが幸い不発に終わる。 (詩:南北の争いが民を苦しめることを嘆く趣旨)
評語
わずか半年ほどの間に十件に及ぶ対日交渉案件が積み重なったが、いずれも強者が弱者を凌ぐ性質のもので、死傷者を出しても撫恤金と謝罪で済まされてしまう弱国外交の限界が浮き彫りになっている。山東問題で直接交渉を拒む姿勢は当然としても、それを後押ししたのが呉佩孚による同郷連合の働きかけであったことは、愛郷愛国の情として評価に値すると結ぶ。