民國演義第九十五回 露乱を聞き国防を籌備し、日員を集め軍約を会商す (聞俄亂籌備國防 集日員會商軍約)

ロシア革命の勃発

  • 欧州大戦が長期化するなか、ロシア皇帝ニコライ二世は英仏と結んで独墺と戦っていたが、緒戦こそ振るったものの以後は敗戦続きで、ポーランドなど占領地も失っていった。
  • 皇后アレクサンドラ(旧名アニード・ゴジー)はドイツ系で、在露ドイツ人を後ろ盾にして政治に介入し、民衆の怨嗟を招いていた。
  • 皇帝は前線司令部にあったが、首都で革命が勃発し、二十万にのぼる革命派が政府機関・郵便・電信・鉄道などを掌握、皇后も幽閉された。皇帝は退位に追い込まれ、弟ミハイル大公に譲位しようとしたが、大公は皇位を辞退し、国体の決定を民意に委ねた。
  • 下院は臨時政府を組織し、政治犯の恩赦、集会結社の自由、普通選挙、階級制度の廃止などを断行し、共和政が成立、英仏米伊日など列強も承認した。ニコライ二世夫妻はシベリアに流された。新政府は独墺との単独講和を否定し、対独継戦を宣言した。

革命後の内紛

  • しかし革命はすぐには安定せず、旧来の急進派(労兵団・農民団)と保守派(立憲派・軍人)の対立が続いた。初代首相リヴォフはまもなく辞職し、後任のケレンスキーは急進派の中心人物として司法・陸軍を歴任し首相となったが、陸軍総長サヴィンコフや将軍コルニーロフと対立、武力衝突にまで至った。さらに急進派を上回る過激派(ボリシェヴィキ)がケレンスキー政権を打倒して新政府・新議会を樹立し、ロシアは混乱を深めた。

中日軍事協定の締結

  • ロシアの内乱でドイツ軍が東方に進出する情勢となり、中国北辺の安全を憂慮した参戦督弁・国務総理段祺瑞は、駐日公使章宗祥を通じて日本政府に共同防敵を提案させた。
  • 章宗祥から日本外務大臣本野一郎へ宛てた公文では、独軍勢力がロシア領内に及び極東の平和を脅かす情勢に対応するため、両国が共同で軍事上の措置を協議する必要がある旨を述べた。日本側も即日これに応じ、別途、有効期間は軍事当局が定めること、日本軍は戦争終結後に中国領内から撤退することを付記した回答を寄せた。
  • 段総理は駐京日本公使と協議し、両国から委員を選出して北京で会議を開いた。中国側委員長は靳雲鵬、日本側委員長は斎藤某で、双方多数の陸海軍将校・地方代表が名を連ねた。
  • 協議の結果、共同防敵に関する十二条の協定が成立した。要旨は、両国が対等の立場で共同軍事行動をとること、軍事行動区域内で中国側は日本軍に協力し日本側も中国の主権・地方慣習を尊重すること、戦争終結後は日本軍を中国領内から撤退させること、必要な場合は国外へも共同派兵しうること、作戦区域・任務や兵器・軍需品の融通、衛生・技術者の相互援助、諜報機関の設置と情報交換、共用暗号の制定、東清鉄道使用時の扱いなどを定め、協定内容は軍事機密として両国とも公表しないことを明記するものだった。海軍についてもほぼ同様の条文が別途定められた。
  • 双方の委員は満足の意を表して閉会し、日本側は本国政府へ、中国側は靳雲鵬が国務院へ上申、国務会議を経て馮国璋総統の裁可により参戦督弁処が調印した。
  • ところがこの秘密協定は日本の新聞報道によって漏れ、京内外の学生らの間で議論が沸騰した。実際には独軍はなおロシア西部にあり中国から遠く隔たっていたため、協定は履行されないまま疑念だけが広がった。

南方独立軍の抗議

  • 南方の独立軍の首領数名も連名で馮総統に電報を送り、中日軍事協定の詳細を問いただした。この経緯は次回で明らかにされる。

評語

  • 革命は伝染病のように各国に波及するが、革命のたびに混乱が深まるのは治療の術を知らぬためである。ロシアの革命もこの病を免れなかった。
  • 中国が参戦団に加わったのは実質を伴わぬ体裁に過ぎず、段総理が独軍の侵入を恐れて日本の力を借りたのはやむを得ぬ苦衷であって、国民は理解すべきである。とはいえ論者が次々と非難の声を上げたのは、他の施策が民意に沿わなかったためであり、疑念が広がるのも無理からぬことである。十二条の内容自体に権益の損失は見当たらぬにもかかわらず、なぜ双方とも秘密を固く守ろうとしたのか、そこに意味を読み取るべきだろう。