民國演義第九十四回 虎の為に倀と作り再び外債を借り、困龍勢を失い自ら内援を乞う (為虎作倀再借外債 困龍失勢自乞內援)

段祺瑞の湖北巡行と軍餉の約束

段祺瑞は犒軍を名目に武昌へ赴き、曹錕・王占元らと軍務を協議。河南督軍趙倜や各省代表を漢口に集め、長沙攻略の勢いを駆って南方統一を図るよう求めた。曹錕は「軍餉さえ整えば将士は奮って戦う」と述べ、段は「兵餉の調達は自分が引き受ける」と約束。その後、江西の陳光遠、江蘇の李純、安徽の倪嗣衝、上海の盧永祥らを歴訪し軍務を協議、河南経由で帰京した。

曹汝霖と対日借款

段は軍費調達のため対日借款に頼らざるを得なくなった。この仲介役を担ったのが親日派の交通総長曹汝霖である。曹は日本留学の経歴を持ち、清末以来、対日交渉(間島問題、安奉鉄路・吉長鉄路利権の譲渡など)や対華二十一カ条・五九条約にも関与した人物で、段の信任も厚かった。曹は日商中華匯業銀行から二千万元を借り入れ(名目は電信拡充、実質は軍費)、電信収入を担保としたが、これは既に丹麥・仏蘭西への借款担保と重複するもので、両国公使から抗議を受けた。政府は「短期借款で五カ月以内に返済する」と釈明し、ひとまず収拾した。さらに曹は日本政府からも二千万元を借款(名目は順済鉄路建設)、条件は苛酷で実収は八七掛け・分割払いであったが、段は他に手段がなくこれを受け入れた。

馮国璋による曹錕への牽制

軍費調達は難航する一方、前線の曹錕・張敬堯は長沙攻略後、動きを止めてしまう。段が督促すると曹錕は軍餉不足を理由に兵を引き上げた。馮国璋はこれを見て曹錕を四川・広東・湖南・江西の四省経略使に任じ保定に鎮めた。段が抗議すると馮は「重賞の下に必ず勇夫あり」と応じるのみで、馮・段の対立はさらに深まった。実は曹錕は当初から「湖南を得れば和議に転じる」との腹積もりであり、表向き段に協力しつつ内実は馮に恭順していたのである。

龍済光の広東出兵と敗北

段は湖南方面が停滞する中、両広巡閲使龍済光と福建督軍李厚基に広東攻略を命じた。龍済光はかつて南軍と対立し瓊州に逼塞していた人物で、段の支持を得て両広巡閲使に任じられ、陽江を攻略したものの、粤軍司令李烈鈞の反撃で連敗し包囲される。閩督李厚基・浙督楊善徳の援軍も間に合わず、龍済光はわずかな手勢で辛くも脱出、広州湾ではフランス領事の武装解除の条件をのんで通過を許され瓊州へ逃げ帰った。残された雷州の孤軍は降伏し、粤軍は瓊州にまで進撃、警衛軍営長楊錦堂の離反もあって龍済光の弟・裕光の守る瓊州も各県を次々に失った。龍済光は自ら北京へ上京し段に援助を求めたが、段は湖南戦線に手一杯で瓊州への援兵は後回しとなり、山東督軍張懐芝を援粤総司令に任じたものの出発は六月下旬にずれ込んだ。

中日軍事密約の露見と学生の抗議

参戦督弁事務処が結んだ日中軍事密約(十二カ条)は両国とも非公開の約束であったが、日本の新聞に内容が漏洩し報じられた。これを受け北京大学・高等師範学校・工業専門学校・法政専門学校などの学生が総統府に押しかけ、条約破棄と条文公開を要求。馮国璋は代表のみを引見し「対外条約であり対内事項ではない」と説明してひとまず学生を退かせたが、天津・上海・福州などでも同様の抗議運動が広がった。

評語

外債には実業投資のように将来収益を生むものもあれば、目先をしのぐだけの飲鴆止渴もある。段祺瑞の借款は専ら平南のためであり、南方平定の見込みが立たぬまま債務のみが積み上がるのは危うい。親日派の曹汝霖がこれを担ったことは「虎の威を借る」との評も当然であろう。龍済光はもともと段派ではなく民党への反感から段に頼ったにすぎないが、高雷での敗北と瓊州の陥落により数年来の根拠地を一朝にして失った。龍王よ、事後に悔いはないだろうか。