民國演義第八十四回 老友を偕い兵を帯び京に入り、故宮を叩き夤夜復辟す (偕老友帶兵入京 叩故宮夤夜復辟)

黎元洪の弁明と国会解散の余波

国会解散に胸のつかえが取れない黎元洪は、自らの立場を弁明する令を重ねて発した。両院議員は相次いで帰郷し、督軍団は目的を達したとして独立を取り消す通電を出した。黒竜江では畢桂芳が幫辦軍務許蘭洲に押されて辞職、許が独断で後任に就くなど混乱も続いた。広東督軍陳炳焜・広西督軍譚浩明は国民党系として黎を支持し、国会解散の違法性(大総統に解散権なし、江朝宗は非国務員で代理資格なし)を指摘する電報を各省へ発したが、督軍団はこれをせせら笑って意に介さなかった。

張勲・李経羲の入京

六月十四日、張勲は李経羲とともに勢揃いで入京した。総統府の出迎えは丁重を極めたが、以後しばらく目立った動きはなく、ただ都に「定武将軍」の告示が貼られるのみで人々は不審を抱いた。二十一日、天津の総参謀処が撤廃され、二十四日に李経羲が国務総理に就任(三か月限りと自ら通電)、二十六日には国会改選のための選挙事務局が設けられた。二十九日、国民党系の司法総長張耀曾・農商総長谷鍾秀が免職となり、江庸・李盛鐸が後任となった。

復辟の密議

六月三十日夜、ついに復辟の芝居が演じられる。張勲は以前から復辟を宿願としており、直隷督軍曹錕は前清の元老徐世昌に相談したが「危険だ」と諭され静観に回った。天津滞在中の張勲のもとへ、前総理熊希齡や副総統馮国璋から復辟に反対する電報が届き、黎元洪も国会解散の際にこの動きを牽制していた。張勲の友人からも時期尚早との忠告があり、張は一旦「復辟は取りやめる」と返電していた。しかし参謀長万繩栻が執拗に復辟を煽り、康有為(前清工部主事)を密かに呼び寄せた。康は詔書を予め起草し北京へ入り、宴席から戻った張勲に披露。躊躇する張を万繩栻がなおも焚きつけ、酒気を帯びた張は「よし、やろう」と決意した。王士珍・江朝宗・呉炳湘・陳光遠らが呼ばれ、王士珍は難色を示したが、張勲は強引に押し切り、電報局を押さえ定武軍を入城させた。

宣統帝の復辟

夜明け前、張勲一行は朝服に着替え清宮へ向かい、定武軍が門を開けさせて押し入った。太保世続や瑾・瑜両太妃は驚き渋ったが、定武軍のどよめきに押され、ついに十三歳の宣統帝を登壇させることを承諾。張勲は跪いて万歳を唱え、王士珍らも従った。康有為起草の詔書が読み上げられ、共和制の混乱を理由に宣統帝親政の復活が宣言され、立憲君主制・皇室経費据置・親貴不干政・満漢融和・既存条約の効力継続・印花税廃止・旧刑律復活・政治犯赦免・辮髪の自由などの九か条が示された。続けて内閣議政大臣・閣丞の任命が発表され、黎元洪は一等公に、張勲・王士珍・陳宝琛らが要職に、康有為も副院長に任じられた。世情では旧朝服が飛ぶように売れる珍景も生まれた。

評語

張勲は数年来の宿志を、黎元洪の危急に乗じて強引に実現させた。清朝はすでに滅び、幼帝を担いでも号令の実は伴わないのは明らかで、各地の軍閥がこれに服するはずもない。それでも私利私欲で動く民国の当局者たちに比べれば、初志を貫いた張勲の姿勢はまだ一貫していると言える。かつて戊戌の政変で光緒帝を危地に追いやった康有為が、今また十三歳の遺児を博打の駒にしたのは、清室を保つどころかかえって害するものである。万繩栻ら取り巻きについては論じるまでもない。