民國演義第八十五回 梁鼎芬、府に造りて説客と為り、黎元洪、館を仮り寓公と作る (梁鼎芬造府為說客 黎元洪假館作寓公)

復辟の急ごしらえ

  • 張勛は復辟を急ごしらえで断行したため、手続きは杜撰を極め、詔書に添える上奏文の多くは康有為が机上ででっち上げたものだった。馮国璋・陸栄廷・瞿鴻禨らの了承も実際には取り付けておらず、康有為・張勛の二人だけで事を決めていた。
  • 張勛は各方面に向けて長文の通電を発し、共和政のもとで綱紀が乱れ、賄賂や暴民が横行し国が疲弊した実情を訴え、清朝の恩義の厚さと徳宗・孝定景皇后の仁慈を強調して、旧主を推戴し帝制に復すことこそ国を救う道だと主張した。

龍旗の翻る北京

  • 張勛の命により、官庁や商店には一斉に龍旗が掲げられ、北京の街は清朝時代さながらの様相を呈した。ただ総統府だけは龍旗を掲げず、張勛も黎元洪の面子を立てて武力行使は控え、清朝の旧臣・梁鼎芬を説客として差し向けた。

梁鼎芬の説得と黎元洪の拒絶

  • 梁鼎芬は総統府を訪れ、復辟の次第と黎に授けられた一等公の封章を示して翻意を迫った。黎元洪は「張勛を都に招いたのは復辟のためではない」と突っぱね、総統の職は国民の負託によるもので私に諾否できるものではないと拒否した。梁鼎芬は「先朝の恩を受けた身」「今さら固辞すれば後悔する」と脅すように迫ったが、黎は黙して応じず、梁は空しく引き下がった。
  • 黎元洪は動揺しつつも密かに秘書に数通の電文を起草させ、電報局が定武軍に押さえられていたため、腹心を密かに上海へ走らせて発信させた。電文の内容は、復辟を断じて認めず共和を支持する旨、張勛が独断で事を起こしたことへの非難、討伐を各方面に促すものだった。

黎元洪の逃避行

  • 側近たちは総統に難を避けるよう勧め、黎は思い悩んだ末に段祺瑞へ大総統印信を託し、馮国璋に代理を委ねる令を出すことを決意。印信を段祺瑞のもとへ送り届けたのち、自らは唐仲寅・劉鍾秀ら僅かな供回りを連れて総統府を脱出し、東交民巷のフランス病院に逃げ込んだが院長不在で入れず、さらに日本公使館界隈へ迷い込んだ。
  • 唐仲寅の知己である日本公使館付武官・斎藤少将を頼り、事情を打ち明けて保護を懇請したところ、斎藤の取り次ぎで日本公使が黎らを使館内の営房にかくまうことを認め、黎元洪は辛くも一夜の宿を得た。日本公使館は後日、各国公使館と清室にこの経緯を正式に通告した。
  • この間、清宮からは瞿鴻禨・升允を大学士に、馮国璋・陸栄廷を参預政務大臣に任じるなど、多数の官職任命の上諭が次々と発せられていた。

段祺瑞の挙兵準備

  • 黎元洪脱出の報を受け、天津に留まっていた段祺瑞は張勛討伐の意を固め、たまたま同地にいた梁啓超と謀議し、駐屯していた陳光遠の軍を頼んで討伐の相談を進めた。李経羲からも大局収拾を託す書状が届き、黎元洪の使者からも印信が段のもとに届いたことで、段は大義名分を得たとして梁啓超に討伐の通電を起草させた。
  • 段祺瑞は自ら共和軍総司令を名乗り、義軍を興して張勛討伐に乗り出す構えを見せた。

評語

  • 康有為・梁鼎芬らは清末の遺臣気質から抜け出せず、「君に忠」の一念に凝り固まって時勢の変化を弁えない愚を犯したと評する。宣統帝はまだ幼く、少康や周宣王のような中興の器量を望むべくもなく、種族革命が既に定着した以上、たとえ名君が再来しても民意に逆らうことはできないとする。
  • 康有為が張勛を助けたのは滑稽の極みであり、梁鼎芬が黎元洪を説いたのも同断である。黎元洪は虎を頼って身を守ろうとしてかえって虎に噛まれかけ、九死に一生を得て日本公使館の情誼に助けられたが、それも運の良さに過ぎず、黎の見識の甘さを厳しく責めるまでもないと結んでいる。