民國演義第八十一回 邦交を絶ち徳使を却回し、督署を攻め蜀城に大いに鬧ぐ (絕邦交卻回德使 攻督署大鬧蜀城)
馮国璋の説得で段祺瑞復帰
段祺瑞が天津へ去り辞表を出すと、教育総長兼内務総長范源濂も追随して辞表を出した。困った黎元洪は馮国璋を呼び相談。馮は「対独断交すれば段は戻る」と説き、自ら天津へ赴いて段を連れ帰ることを申し出た。断交により列強との条約改正の可能性が開けるとの利点も説明し、黎はこれを容れた。馮は天津へ行き、段とともに帰京した。
対独断交の決定
各国公使への照会で断交後も条約改正の見込みがあるとの回答を得て、黎・段は同意した。国会内外には反対論(曹振懋・唐宝鍔らの質問書、馬君武らの反対通電、張勲・倪嗣衝・王占元ら督軍の中立維持要求、孫文・唐紹儀・康有為らの反対電)も多かったが、段は迎賓館に議員を招いて根回しを行った。三月十日、衆議院・参議院とも大差で対独断交案を可決。折しも独逸公使辛慈から、封鎖策は撤回しないとの回答が届いたため、政府は正式に独逸との国交断絶を布告し、辛慈に護照を送って退去させた。
断交後の処理
国務院に国際政務評議会(正会長段祺瑞、副会長伍廷芳)を設け、独逸僑民の処置・対協約国条件・華工募集・物資供給・関税改正等を審議した。天津・漢口の独逸租界回収、独逸系鉄道・商船の接収、独逸人技師の解職などが進められた。上海仏租界の同済医工大学は、独逸人経営を理由に仏側が強制解散させ、教育部が呉淞へ移転させて存続させた。独逸への未払金は中国銀行に留保することとしたが、英仏の反対や、独逸権益を代理するというオランダ公使の照会もあり、なお紛糾が続いた。段祺瑞はさらに対独宣戦まで求めたが、黎元洪は断交で十分として応じず、府院の溝は再び深まった。
四川の兵乱(羅佩金と劉存厚の衝突)
折しも四川で羅佩金(滇軍系督軍)と劉存厚(川軍師長)の対立が武力衝突に発展。羅が滇川両軍の削減を図ったところ、劉存厚ら川軍側が反発して成都に進軍し、羅の督軍署を包囲。督軍署が発砲し市街戦となり、多数の住民が犠牲となった。商民の仲裁でようやく停戦。政府は羅・劉双方を将軍位に任じて上京させ、省長戴戡を四川督軍代理とし、王人文・張習を査弁使として現地調査に派遣した。劉存厚は命令に従わず居座り続け、戴戡が政府に実情を報告した。
評語
対独断交は結果的に段祺瑞の先見と言えなくもないが、実利は乏しく府院の衝突を深めただけであった。段は剛に過ぎ、黎は柔に過ぎ、決断すべき時に決断できず混乱を招いた。四川の兵乱も曲は劉存厚にあるのに、政府は双方に将軍位を与えて事なきを得ようとした。功罪を問わぬ論功行賞は武人の増長を招くもので、後の禍根となった。