民國演義第七十九回 郷関を目断して偉人また歿し、釁府院に開き政客交々争う (目斷鄉關偉人又歿 釁開府院政客交爭)

蔡鍔の療養と小鳳仙への手紙

  • 四川督軍として激務にあった蔡鍔(松坡)は持病の喉痛・心疾が悪化。小鳳仙から四川に赴きたいとの手紙を受け、督務が一段落したら渡洋治療の際に伴う旨を返信した。
  • 病状悪化のため政府に休暇と羅佩金への代理を願い出て許可され、上海へ向かった。

上海での療養と梁啓超との対話

  • 上海では歓迎を辞退し静養に専念、梁啓超(任公)が見舞うと、蔡鍔は師弟の礼を尽くして応対した。梁は帝制残党による危害を警戒するよう忠告し、蔡は日常の用心(食事の検査など)を語りつつ、東京での治療を検討していると述べ、自らの死期を予感するような言葉も漏らした。
  • 間もなく日本へ渡ることを梁に告げ、見送りを受けた。

蔡鍔の死

  • 福岡の病院で治療を受けたが好転せず、日本の天長節(十月三十一日)に黄興逝去の報を聞いて悲嘆し病状が悪化。十一月八日、飛行機の試験飛行を見た後に体調を崩し、その日の夕方に三十七歳で死去した。
  • 黎総統は勲一位追贈と治喪費二万円の下賜を命令し、駐日公使・章宗祥に葬儀の手配を委ねた。

小鳳仙の後日談と奇夢の逸話

  • 小鳳仙は訃報に激しく悲しみ、翌日死亡しているのが発見され、絶命書には蔡鍔を慕う言葉が残されていたと伝えられるが、著者はその真偽を保留している。
  • また蔡鍔が生前語ったという奇夢(袁世凱を龍に見立て、唐継尭・李烈鈞を仙人に見立てた夢)が友人の口から伝えられ、護国の成功と自身の死を暗示していたと結ばれる。

国葬と黄興・蔡鍔の埋葬

  • 『国葬法』に基づき、黄興・蔡鍔はともに国葬に付されることが国会で議決された。十二月五日、蔡の柩は上海を経て帰国し、盛大な弔問を受けた。故郷に専用の墓が設けられた。

府院の暗闘―孫洪伊と徐樹錚の対立

  • 内務総長・孫洪伊は同盟会以来の急進派で、黎総統の側近として国務院の議事にも積極的に発言し、次第に周囲の反感を買っていた。
  • 国務院秘書長・徐樹錚は段祺瑞の腹心で、事実上「総理第二」と称されるほど権勢を振るっていたが、孫洪伊は院からの公文書に度々異を唱え、両者の間に確執が募った。
  • ある会議の場で孫と徐は激しく口論となり、互いに越権・情報漏洩を非難しあった。段総理は徐を庇い孫を叱責、黎総統は逆に孫を庇う姿勢を見せ、府院間の対立が表面化した。
  • 段総理は黎総統に辞意をほのめかすほど態度を硬化させたが、黎はなだめて慰留した。
  • 交通総長・許世英の進言により、調停役として徐世昌(東海)が呼ばれることになり、府院双方から使者が送られ、徐は輝県から上京することとなった。

評語

蔡鍔は倒袁の第一人者であり再造共和の第一の功労者で、黄興に比べても功績は勝るとされる。両者とも壮年で世を去ったことは惜しまれる。孫洪伊・徐樹錚の争いは意気による軋轢に過ぎないが、これが府院間の暗闘を醸成する発端となった。