民國演義第七十八回 副座に挙げられ馮華甫当選し、上海に返り黄克強病に終わる (舉副座馮華甫當選 返上海黃克強病終)

段内閣の追認と国慶祝典

  • 両院は国務総理・段祺瑞と閣員(谷鍾秀が張国淦に代わり農商総長就任など)を大多数で追認した。伍廷芳は十一月中旬に外交総長となった。
  • 双十節(国慶節)は袁氏時代に中止されていたが、この年久々に盛大に挙行され、南苑での閲兵式、放假・掲旗・追祭・褒賞・恤貧などが行われた。
  • 黎総統は孫文・黄興に大勲位・勲一位を授与したのを筆頭に、蔡鍔・唐継尭・陸栄廷・梁啓超・岑春煊らに勲一位、多数の軍民長官に勲二〜四位や嘉禾章を授けた。海珠事件などの死難者への撫恤も命じられた。

副総統選挙

  • 副総統が未定のまま残っており、両院で選挙を求める提案が相次いだ。段祺瑞・馮国璋、あるいは岑春煊・唐継尭が有力視されたが、勢力の点で段・馮が優勢とみられた。
  • 十月三十日、両院合同で選挙会が開かれ、七百二十四人が投票、馮国璋が五百二十票で当選。黎総統はこれを認め、馮に江蘇督軍兼任のまま就任させた。
  • 馮は段への返電で謙遜を示しつつ受任した。地の文では、馮・段はともに北洋武備学堂出身の同学で、馮は直隷派、段は安徽派と目されながら北洋派と総称され、世に「段は虎、馮は狗」と評されたこと、副総統の座は馮の長江各省への地盤固めと民党との融和によるところが大きく、段はやや後れを取った形になったことが記される。

黄興の死

  • 黄興は五月に帰国し上海に滞在していたが、国慶記念日の朝に喀血して倒れ、一命は取り留めたものの病状は好転せず、黎総統から授けられた勲一位も固辞しようとした。
  • 病床で孫文・唐紹儀の見舞いを受け、民国の将来を託す言葉を残し、十月三十一日に四十三歳で死去。
  • 黎総統は治喪費二万円を下賜し、王芝祥を弔祭に派遣。祭文が捧げられ、盛大な葬儀が行われた。

蔡鍔の訃報

  • 王芝祥が北京へ戻る頃、日本福岡の病院からさらに一人の偉人(蔡鍔)が病没したとの急報が届き、章末で次回への引きとなる。

評語

段祺瑞の功績は倒袁よりも黎元洪擁立にあり、副総統の座は本来段に帰すべきところ馮国璋が選ばれたのは、当時の政治が「運動」(根回し)によって決まる実情を示している。黄興は行状に瑕はあったが臨終に国家を思う心を示した点は評価できる。