民國演義第五十九回 罪を声し討を致し檄を中原に告げ、怨を構え兵を興し禍隣省に延ぶ (聲罪致討檄告中原 搆怨興兵禍延鄰省)
唐継堯の討袁檄文
誓師を終えた唐継堯は、蔡鍔・李烈鈞連名で袁世凱の十九の大罪を列挙する檄文を発する。内容は、南京での就任を拒み武力で威嚇して条件を吊り上げたこと、外モンゴル・チベット問題での失策、国会議員を武力で威圧して同意を強要したこと、張振武を法によらず処刑したこと、地方制度を独断で改変したこと、塩税を担保に無断で巨額外債を結んだこと、宋教仁暗殺を裏で指図したこと、国会議員を買収・弾圧したこと、国会を包囲して総統選挙を強要したこと、議員資格を私意で剥奪し国会を解散させたこと、御用の政治会議・約法会議で勝手に約法を改変したこと、地方議会をすべて廃止し言論弾圧を行ったこと、借款政策で利権を切り売りしたこと、対華二十一箇条をめぐる外交での屈服、内国公債の強制割当による民衆収奪、賭博・アヘンの取り締まりを緩めて私腹を肥やしたこと、そして最終的に帝制を僭称して国を裏切ったことなど、袁の来歴から帝制決行に至るまでの不正・背信を網羅的に糾弾する内容であった。檄文は、国会による正式な元首選出、非合法な法令の廃止、民権・地方自治の尊重、連邦制的な地方政府の樹立などを掲げ、天下に決起を呼びかけて結ばれる。
護国軍の進発
檄文の発布とともに、雲南護国軍は唐継堯が本国防衛に残る一方、蔡鍔の第一軍は四川へ、李烈鈞の第二軍は広西へとそれぞれ進発した。
袁世凱の対抗策
警報を受けた袁は1月4日に軍事会議を開き、緊急・臨時・予備の三段階の戒厳区域を設定し、湖南方面(馬継増・第六師)、四川方面(張敬堯・第七師、曹錕を総司令として統轄)、広西方面(龍覲光)の三方面から討伐軍を派遣する方略を定めた。あわせて龍済光・張勛・馮国璋ら各地の実力者に精鋭部隊の待機を命じ、王占元には漢口に軍需輸送局を設けさせるなど、体裁上は周到な準備を整えた。しかし実際に派遣された曹錕配下の第三師は、かつて民国元年の兵変で略奪・暴行を働いた素行不良の部隊であり、四川へ向かう道中でも湖南・湖北で掠奪や乱暴を繰り返し、粛政庁の弾劾を受けても軍紀は改まらなかった。
日本への働きかけと不穏な兆し
1月10日、参政院は改めて即位を急ぐよう求める上奏を行い、袁は籌備処に検討させる一方、農商総長周自齊を日本天皇即位慶賀の名目で派遣し、内々に帝制承認への協力を求めさせた。ところが周自齊が出発した直後、日本公使館から外交部に一通の照会が届き、袁を大きく動揺させることになる。
評語
語り手は、雲南の檄文は義正しく厳しい言葉に満ちており、決して大げさとは言えないと評し、これによって国民は袁の欺瞞の全貌を初めて知ることになったと述べる。袁の出師の準備自体は清の康熙帝が三藩の乱を平定した時にも劣らぬほど周到であったにもかかわらず、結局失敗に終わったのは人心がすでに離れ、軍の士気が上がらなかったためであり、加えて行軍先での略奪が民心をさらに失わせたと指摘する。最後に、袁は欺瞞によって成り上がり、その欺瞞によって滅びようとしていると総括し、力によって仁を装う者は王にも覇にもなり得ないという孟子の言葉を引いて締めくくる。