民國演義第三十六回 就道を促し副座京に入り、要路を避け兼督職を辞す (促就道副座入京 避要路兼督辭職)

異党の排除と政治会議の設置

異党を退けて議会を骨抜きにした袁総統は、二次革命の際に両陣営の調停を図った雲南都督蔡鍔を警戒して入京させ黔督唐継堯に兼署させたほか、独立に同調した経緯のある湖南都督譚延闓・福建都督孫道仁も免職とし、湖南は湯薌銘、福建は海軍総長劉冠雄兼代とした(のち福建都督は廃止し民政長のみとする)。国会が定足数割れで機能しないのに乗じ、袁は政治会議という新機関を設け、李経羲を会長に梁敦彦・樊増祥・蔡鍔・寶熙・馬良・楊度・趙惟熙らを議員とし、国会の代役に据えた。

黎元洪への通電工作と上京

袁は各省長官に働きかけ、国会解散を求めさせた。副総統兼湖北都督の黎元洪を筆頭に、多数の都督・民政長が連署で「国会は無為無策で乱党議員を多数抱え、立法の実効なく国費のみを浪費している。速やかに現議員に暇を与え帰郷させ、改めて召集すべきだ」との趣旨の電報を袁に送った。程なく参議院議長王家襄が総統の密令を伝え、黎は事務を民政長に委ねて急ぎ上京した。その後、袁は「黎元洪、公務で来京につき段祺瑞に湖北都督事務を暫代させる」との命令を発し、周囲は真意を測りかねた。

袁克定の帝制画策と段・黎への疑心

袁総統は嘗て左右に、自分の武功は挙兵から二月足らずで乱を鎮めた点でナポレオンにも劣らないが、ナポレオンのように帝政に走る愚は犯さないと語ったことがあった。これに乗じ長男の袁克定は父を帝位に就けようと機を窺い、友人の阮忠樞を介して陸軍を握る段祺瑞に働きかけたが、段は一喝してこれを退けた。段が「項城はたびたび帝位に就かぬと明言しているのに、克定は妄想している」と漏らしたと聞いた克定は怨みを深め、袁の遠縁の袁乃寛と結んで段の讒言を重ね始めた。また段が袁に、黎元洪は仁厚だが決断力に欠けると評したことも、後に克定・黎双方への不信の種となった。段が味方せぬと見た克定は黎元洪にも接近を図ったが、黎の反応も段と大差なかったため、克定は謀って黎を上京させ軟禁同然に留め置き、段は外に出して兵権を削ぐ策を袁に吹き込んだ。

黎元洪の辞任と都督更迭

黎・段とも人の下にある身で逆らえず、上京した黎は自ら都督辞任を願い出た。黎の上表は、袁への深い恩義と信頼を格調高く述べつつ、二次革命鎮定後の心境や高齢を理由に湖北都督の免職を乞う内容であり、袁の返書も黎の功績を称え、当初は慰留するも結局願いを容れる体裁を取った。袁はほどなく「黎元洪の辞任を許す」との命令を発し、あわせて張勲を都督職から外して長江巡閲使に転じ、馮国璋を江蘇都督、趙秉鈞を直隷都督に任じた。この人事の真意は次回に明かされる。

評語

黎元洪は二次革命で密かに北軍を助け、国会撤廃の議にも異を唱えず袁に従い続けたにもかかわらず、袁は帝制を密かに企てるや猜疑心から黎を上京させ体よく軟禁した。人に取り入って身を全うしようとした黎が、結局その袁に裏切られる巡り合わせを、著者は惜しんでいる。