民國演義第三十七回 国会議員を罷め籍に帰らしめ、婚礼を行い上将姻を続ぐ (罷國會議員回籍 行婚禮上將續姻)

張勲の左遷と国会軽視

かつて袁配下で新軍を練った張勲は、清朝への恩義から辮髪を切らず、二次革命では南京攻略で袁に尽くしたが、帝制を計画する袁はその忠清ぶりを警戒し、江蘇都督の職を解いて散職に回し、代わりに馮国璋を江蘇、趙秉鈞を直隷の都督に任じて南北の守りを固めた。両院議員はなお臨時約法を根拠に政府へ質問を重ねたが、国務院は「議員は法定人数に満たず質問の資格なし」と一蹴した。民国三年の元旦には総統府で盛大な祝賀が催され、袁は勲位や嘉禾章を大量に授けて取り巻きを潤したが、一般人民には何の恩恵もなかった。

国会議員の資格停止

元旦から十日後、袁は政治会議の答申を受けて命令を発した。黎元洪らの通電にあった「議員に暇を与え帰郷させよ」との提案を採用し、現有両院議員は国会組織法上の定足数を満たしていないとして、両院議員の職務を一律停止し、改めて別途国会を召集すると布告した。実際には約法の不備・議員の不出来を口実に立法機関を廃するための策で、政治会議の面々も内心では気づきつつ大勢に逆らわず、議員たちは五千円の歳費を失い、僅かな旅費だけを手に帰郷していった。

袁克定と段芝貴の美人計

袁の長男克定は、黎元洪の軟禁・段祺瑞の外遷で邪魔者を排したものの、なお声望ある協力者を欠くと考え、段芝貴と諮って江蘇都督馮国璋の懐柔を図った。段芝貴は総統府の女性教師・周道如(江蘇宜興の人、清の内閣学士の娘)に目をつけた。周女史は学識に優れ、総統の子女や側室たちの師でもあり、袁の三夫人(高麗出身)とも親しかった。三夫人が周女史に縁談を勧めると、周は母を亡くし婚期を逃したことを嘆きつつも心を動かされ、三夫人は袁総統にこの話を伝えた。

冯国璋との縁談成立

折しも上京中の馮国璋が総統府で周女史を見かけて感嘆したのを機に、袁は喪妻中の馮に周女史を継室として娶るよう勧め、馮も内心では乗り気で承知した。後日、馮が江寧都督として赴任する送別の宴で、段芝貴が周女史の話を持ち出して冗談を交わし、馮も満更でない様子を見せた。段芝貴はこれを袁克定に報告し、克定は袁総統に働きかけ、袁は三夫人を通じて話をまとめ、馮に婚約履行を求める書状を送った。婚礼は民国三年一月十九日、南京で執り行われることとなった。

盛大な婚礼

一月十二日、袁は克定と三夫人に周女史の一族と代表団を随行させ、南京へ送り出した。江寧の下関・江口一帯は花電車・彩灯・松柏の牌楼で飾られ、軍隊が沿道を固める盛儀となった。花嫁は都督府近くの交渉局に迎えられ、武装兵が幾重にも警護し、各界からの祝辞や屏風額が数十点贈られた。十九日、馮都督は礼装で花嫁を迎え、文明結婚式の様式に則り、代表者の祝辞朗読、新郎新婦の答礼、来賓の祝辞と応答、拝礼の儀を経て婚礼は成った。物語の結びに、この一件を振り返る短い感懐の詩が添えられている(南方の縁組を月下老人になぞらえ、艶やかな逸話として締めくくる趣旨)。

評語

立法機関の停止は民主政体の否定に等しく、後の帝制運動の露払いであった。克定は黎・段の懐柔に失敗し、やむなく馮国璋に矛先を転じたが、貞節を守ってきた周女史を政略の道具として縁組に利用したことは、彼女の本意に背くものであったと筆者は指摘する。