明季北略元旦失朝(新史) 思宗 崇禎十六年癸未 1643年

元旦失朝・十二陵祭祀

  • 癸未年正月朔、朝賀に集う廷臣がまばらで儀礼が乱れた。首輔周延儒が「政の緩みが廷臣の怠慢を招いた」と自省の上言をした。
  • 天寿山の十二陵の祭祀の様子(定陵・長陵・永陵などの構造、行事の格式)が詳述される。

周延儒・呉昌時の専横と失脚

  • 癸未三月、呉昌時が吏部文選司主事に転じ、太監王化民らと結んで銓選の権を握った。四月、御史祁彪佳らがその専横を弾劾、吏部尚書鄭三俊が誤った推薦の責を負い辞任した。
  • 四月、大清軍が久しく内地に留まる中、周延儒は督師を命じられたが大清軍を恐れて対峙を避け、天候が暑くなり大清軍が撤退すると偽って戦捷を奏上し太師に加封された。世間はこれを風刺する詩を作った。五月、廷儒は罷免され帰郷。
  • 七月、山東兵備雷演祚が総督范志完の縦兵・淫掠・収賄を告発し、審理の中で延儒の収賄・専権の実態(総兵・巡撫の任命に賄賂を要求する幕客董廷献の存在など)が暴かれた。皇帝自ら呉昌時を尋問し拷問を加えた。
  • 十二月、呉昌時は誅殺され、周延儒にも死が賜られた。著者は延儒の栄達と没落の全経緯(賄賂で進み賄賂で敗れ、宦官・呉昌時により進み彼らにより敗れた)を詳述し、その半百の誕辰祝いの盛大さと急転直下の失脚を対比的に描いている。大清軍の侵入・撤退をめぐる延儒の対応の顛末も詳しく記される。

呉昌時の審問

  • 蒋拱宸の弾劾を受け、皇帝自ら文華殿で呉昌時・周延儒の朋比を審問し、拷問により全面自供させた経緯が記される。福建道御史施元征も関与を疑われ緹騎が派遣された。

宋応亨の殉節

  • 山東萊陽の宋応亨は萊陽守城戦で奮戦し、崇禎十六年二月に城が陥落した際、家人と共に不屈のまま殺害された。太史王崇簡の追悼詩が引かれる。

北都崩解の予兆

  • 崇禎末年、北京市民の間で「流賊来れば城門を開ける」との言が公然と語られるほど人心が離反していたこと、また宮中が守城兵にわずかな銭しか与えられず、妓楼にまで献金を強いる有様が記される。

蔣臣の鈔法・搗銭造鈔

  • 癸未六月、蔣臣が紙幣(鈔)による財政再建策を上言。銭価の暴騰への対策として私鋳銭の摘発・搗砕が厳しく行われたが実効は乏しく、最終的に紙幣発行策も紙原料(樺皮)の不足で頓挫した経緯が詳述される。
  • 十月、皇帝自ら銅錫木器を用い金銀を退け、倹約を諸臣・士庶に求めた。

承天府の陥落

  • 癸未正月、李自成が湖広承天府を陥し、巡撫宋一鶴が抗戦の末自刎した。鐘祥知県蕭漢の壮絶な抵抗と最期(賊に降伏を勧められても拒み続け、自ら自刎した経緯)が詳述される。偽知州張聯奎の裏切りとその不慮の死、妻何氏の守節も記される。

怪異譚二則(付記)

  • 賊が陵墓を発掘した際に殉葬された美人が蘇生したがすぐ死んだ話、首を斬られても生き続けた者の話など、複数の怪異譚が「参考として」付記される。

李自成の湖広攻略

  • 癸未正月、自成・羅汝才が雲夢・孝感・黄陂を陥し、偽の免税・不殺の布告と李巌作の童謡で民心を得た経緯が記される。
  • 左良玉は自成軍を避けて東下し、沿江で乱暴狼藉を働いたため南京が震撼した。三月、襄城失陥の責を問われるも功により不問とされた。

馬世奇・徐標の建言

  • 癸未、馬世奇は「献忠より闖賊の方が治めがたい、民は兵に苦しめられて賊に付いている」と分析し、人心収攬の重要性を説いた。
  • 五月、徐標は各地の荒廃ぶりを報告し涙を流させ、辺境防備と守令の賢明さの重要性を説いた。

李自成の常徳陥落・左金王ら誅殺

  • 二月、湖広の土寇が澧州・常徳・武岡州を陥し岷王を殺害。三月、常徳も陥落。
  • 二月、自成は左金王(革裏眼こと賀一龍)を宴席で謀殺し、三月には羅汝才も謀殺してその軍を吸収した。汝才の人物像・自成との関係が詳述される。

李自成の襄陽拠点化・関中攻略の方針

  • 四月、自成は襄陽を「襄京」と号し官制を整備、田見秀・劉宗敏ら諸将に位を授けた。五月、顧君恩の献策により関中先取の方針を定めた。

孫傳庭の攻防と潼関陥落

  • 五月から九月にかけ孫伝庭は唐県奪回など一時の勝利を収めたが、九月に汝州で大敗し、十月には潼関が陥落、伝庭は戦死した。著者は多雨・食糧不足という悪条件と伝庭の驕りを敗因として分析している。
  • 自成は西安に入り王を称し、陝西各地を席巻した。多数の官吏が殉節・自尽した(黄絅、焦源溥、南企仲、朱新達、劉振之ら)。

榆林の陥落と守将たちの殉義

  • 十一月、自成が榆林を攻め、守将都任・尤世威ら多数の武将が全員不屈のまま戦死し、婦女も自尽した。著者はこの地の忠烈を「古今未聞」と称賛している。

山東・河南の飢饉と土寇

  • 各地で飢饉が続き、土寇が蜂起した状況が記される。