明季北略降座揖相 思宗 崇禎十五年壬午 1642年

皇帝、大学士に敬礼す

  • 正月朔、皇帝は朝会後、大学士周延儒・賀逢聖・謝升を殿に招き「卿らは朕の師である」と述べて座を降り西向きに一礼した。三人とも恐縮して謝したが、著者は「賀逢聖のみがやや恥じるところがなかった」と評す。

東廠の弊害を論ず

  • 正月、御史楊仁願が東廠の密告制度の弊害(濡れ衣による恐喝や告発の悪用)を上疏し、皇帝は東廠の権限を謀反・乱倫のみに限定するよう諭旨した。著者はこの上言を高く評価している。

天壇と地壇の行幸

  • 北京永定門内の天壇の構造・祭祀の様子が詳しく描写される(略)。
  • 崇禎壬午四月、皇帝が北城外の地壇で大社の礼を行った際の壮麗な行列・警備・儀仗の様子が詳細に記録される。

謝升の削籍・馬士英の起用

  • 四月、謝升が兵餉について「皇帝が独断で聡明ぶるため天下が乱れる」と発言したため皇帝の怒りを買い除籍された。
  • 同月、馬士英が赦されて兵部左侍郎・鳳陽提督に起用された(阮大鋮の口利きによる)。

減税・停刑と内閣人事

  • 二月、山東への賑済と十二年以前の税糧免除が発せられ、六月には河南・帰徳・汝州の田租免除、各省直の三年間刑罰停止が命じられた。十月には貧民への米布支給、閏十一月には罪己詔が下された。
  • 六月、蔣德璟・黄景昉・呉甡が入閣。吏部の推挙をめぐり皇帝が「私交を裏切らず職務を疎かにする」臣下の姿勢を戒め、関係者を処罰する事件があった。
  • 六月、御史呉履中が温体仁・楊嗣昌の登用を「二つの失策」と論じた。

黄道周の復官

  • 壬午八月、黄道周が召還され少詹事に復職した。周延儒の取りなしにより、岳飛の故事を引いた皇帝の述懐をきっかけに赦免となった経緯が記される。

陳新甲の誅殺・王応熊の召還・劉宗周の建言

  • 九月、辺境の失策の責任を問われ兵部尚書陳新甲が誅殺された。周延儒の弁護も功を奏さなかった。
  • 十一月、大学士王応熊が召還されたが老齢を理由に致仕した。
  • 八月、劉宗周が左都御史に進み、十一月には政治の弊害を正す六つの建言(書院設立、錦衣衛の刑具廃止、大臣処罰の慎重化、匿名文書の禁止、官吏の交際是正、催科の弊害是正)を行い皇帝に受け入れられた。閏十一月、匿名文書事件で禮科給事姜采が投獄された。

劉宗周の削籍

  • 閏十一月、皇帝が督撫の任用について問うた際、劉宗周は「廉潔を第一とすべき」と答え、火器の重要性を説く御史との議論で皇帝の不興を買った。姜垓・熊開元の釈放を求めたことでも皇帝の怒りを招き、宗周は削籍、金光宸は降格となった。熊開元の経歴(周延儒弾劾により杖罪・戍を受け、後に出家)も付記される。

定王の学習風景

  • 崇禎十五年八月、定王(皇子)の学習の様子が、講師の方以智・劉明翰との交流を通じて詳しく描かれる(学びぶり、師弟の情愛など)。

山東・辺境の平定

  • 壬午正月、山東の盗賊李青山が兵部侍郎張国維の計略により降伏・鎮圧された。
  • 王佐聖は貴州遵義知県として異民族の侵攻を撃退したが壬午四月に殉節した。

孫傳庭の賀人龍誅殺

  • 壬午正月、孫伝庭が陝西兵の督師に起用され、四月に驕慢な将軍賀人龍を斬った。著者は人龍の功績も評価しつつ、名将を軽々に殺したことへの疑問を呈している。

李自成の陳州屠戮・開封水攻め

  • 壬午正月、李自成は西華を陥し、三月には陳州を攻めて屠戮、睢州・太康・帰徳府・寧陵・考城を陥した。
  • 開封は壬午二月から再三包囲され、周王が私財を投じて防衛を支えたが、九月に自成が黄河を決壊させ開封を水没させた。数十万の死者を出し、周王一族も辛くも脱出した。著者はこの惨事を張献忠の武昌屠戮と並ぶ最大の惨劇と評し、賊将の悪行への天罰を論じている。開封陥落に関する複数の見聞録(张民表の最期、洪水の惨状など)が詳述される。

張氏商邱自焚・李自成の南陽・汝寧攻略

  • 商邱の梁以樟夫人張氏は、夫の殉節を知り一族三十六人と共に焼死した壮絶な逸話が記される。
  • 九月、孫伝庭が南陽で自成と戦い一時勝利したが後に大敗し、南陽は再陥落し屠戮された。閏十一月には汝寧も陥落し、楊文岳・王世琮らが殉節した。

左良玉の襄陽・荊州放棄

  • 左良玉は朱仙鎮から潰走し襄陽に屯し二十万の軍を擁したが統制を欠き略奪が横行した。十二月、李自成・羅汝才が襄陽を陥し、良玉はさらに南下、荊州も自成軍に明け渡された経緯が、目撃者の証言とともに記される。左良玉軍による武昌周辺の乱暴狼藉も記録される。

張献忠の廬州・安慶方面攻略

  • 正月から四月にかけ張献忠は舒城・六安を陥落させ、多数の殉節者(韓光祖一家など)を出した。五月には計略により廬州を襲い陥落させ、盧謙ら殉節者が出た。著者は明の敗因を「無能な人材登用」と嘆いている。
  • 五月、賀一龍(革賊)が無為州を陥し、六月には革裏眼が六安・英霍の山中に拠った。七月、献忠は廬州を破壊し巣湖で水軍を訓練、八月には僭号改元を図った。九月に黄得功・劉良佐が献忠軍を潜山で破り、十月には安慶でも撃破したが、十二月には太湖・黄梅なども陥落した。

洪承疇の降清

  • 崇禎十四年から十五年にかけての洪承疇の遼東遠征・松山の敗北・大清への降伏の経緯が詳述される。錦州の祖大寿も最終的に降伏した。大清軍はその後山東に侵入し兗州府を陥し魯王を殺害した。

大清軍の入塞

  • 崇禎十三年から十五年にかけ、大清軍が幾度も入塞し、河間・臨清・青州など各地を席巻した経緯が記される。姜瀉里・宋玫ら山東の殉節者の事績も詳述される。

造船航海策

  • 崇禎十五年、兵科都給事中魯応遴の航海攻心策(造船して遼東を海路攻撃する)をめぐる工部・兵部間の押し付け合いと、最終的に実現せず沙汰止みとなった顛末が記録される。

怪異と無錫の逸話

  • 壬午閏十一月、拱極城で刀の刃に光が現れた。徐亮工が陝西吳堡知県として見た怪鳥の話や、無錫での疫病流行が記される。
  • 附記として、無錫の生員が県令龐昌允を追い出した騒動が記される。著者はこれを士風の乱れと当時の姑息な対応を象徴する事件と評している。