明季北略元旦文武乱朝班 思宗 崇禎十七年甲申 1644年
元旦の混乱・風変地震・降乩
- 甲申元旦、朝賀に集う文武百官が本来の位置を誤って入り乱れる異例の事態となった。著者はこれを凶兆と評す。同日、大風霾が起こり、鳳陽の陵墓で地震が報告された。
- 皇帝は天下大乱を憂い扶乩(降霊術)を行わせたところ「官貪吏要銭、八方七処乱」などの詩が降り、皇帝は不快の色を示した。
大清の建国改元・李自成の僭号
- 正月朔、建州が国号を大清、元号を順治と改めた。
- 正月三日、李自成が西安で王を称し、国号を大順、年号を永昌とし、宋献策を軍師、牛金星を丞相に六政府の官制を整備した。前線には劉宗敏・李過らを進発させ、河東方面を席巻した。
李明睿の南遷議・光時亨の反対
- 正月三日、左中允李明睿が皇帝に密かに南遷を進言し、皇帝も内心賛同していたが公言をためらった。後に太原陥落後、明睿が再び上疏したが兵科給事中光時亨が「邪説」として弾劾し、南遷の議は沙汰止みとなった。
山西方面の陥落と諸臣の対応
- 正月から二月にかけ、平陽・太原周辺が次々と陥落し、寧遠死守か撤退かをめぐる朝議、真定失陥時の巡撫徐標の対応などが記される。李建泰が私財を投じて督師として出征する盛大な壮行の儀式が詳述されるが、進軍は遅々として進まず、最終的に賊に降り大清の宰相にまで転じた末路が記される。
太原・寧武・大同・宣府・陽和の陥落と殉節
- 二月、蔡懋德が太原で死守の末殉節(中軍応時盛も殉死)。畢拱辰も同時に殉節。
- 周遇吉は寧武関で兵力の劣勢にもかかわらず数千の賊を殺す奮戦を見せたが、火薬が尽きて陥落、夫人劉氏も婦女を率いて奮戦し一家全滅、周遇吉自身は磔にされた。この抵抗は自成軍に「周将軍のような守将ばかりなら成功しなかった」と嘆かせるほどのものであった。
- 大同では衛景瑗が捕らえられ屈せず自尽。宣府では朱之馮が兵民に見放され自ら大砲を発射しようとして果たせず縊死した。陽和も陥落した。
献金・罪己詔・京師防衛の混乱
- 皇帝は勲戚・大璫に献金を求めたが、周奎ら外戚は出し渋り、追い詰められてようやく少額を拠出するに留まった。妓楼にまで献金を強いる有様も記された。
- 皇帝は罪己詔を頒布し、張真人を招いて醮を行わせるなど、災異への対応に追われた。
- 昌平・居庸関が相次いで陥落し、京師は完全に包囲された。李邦華らによる太子の南京撫軍の提案も、光時亨の反対で潰えた。
京師陥落
- 三月十六日以降、賊軍が京師を包囲し、十七日に彰義門が開かれ(曹化淳らの内応)、十八日には外城が陥落。周皇后は坤寧宮で自縊し、皇帝は長平公主の腕を斬り、袁貴妃を手にかけた後、三月十九日払暁、万歳山(煤山)で自縊し崩御した。太監王承恩も殉死した。太子・定王・永王は外戚宅に匿われた。
李自成の入城
- 十九日、李自成が北京城内に入り、劉宗敏・牛金星らが随行。承天門の額を射て天下取りの吉凶を占う逸話、象房橋の象が哀鳴した異変などが記される。降臣らに「順民」の札を掲げさせ、百官に出仕を命じる布告が出された。
太子の処遇・宮人の節義
- 太子は捕らえられたが屈せず、自成との問答で毅然とした態度を示した。宮人魏氏・費氏の壮絶な節義(費氏は自成の部下を欺いて刺殺し自刎)が記される。
崇禎帝の遺骸発見と埋葬
- 二十一日、煤山で崇禎帝の遺骸が発見され、血の遺詔(「百姓を一人も傷つけるな」)が発見された。柳の粗末な棺に納められた後、李国禎らの働きかけで帝礼による埋葬が許され、四月に昌平で葬られた。
劉青田(劉基)の予言の軸
- 宮中の密室に劉基(劉青田)が残した三幅の絵図が、崇禎末に開封され、文武百官の逃走・兵士の背反・皇帝自身の最期を暗示する内容であったとする伝説が記される。
百官の出仕・処罰
- 二十一日から連日、百官が名を報じて出仕を求め、削髪して恥辱を避けようとする者、または賊に取り入ろうとする者など様々な様相が記される。李建泰も入城し賊の礼遇を受けた。
官制改革と点検・追贓(拷問による献金強要)
- 大順政権による明朝官制の改編(内閣を天佑、翰林院を宏文館、御史を直指などに改称)が記される。
- 二十三日以降、劉宗敏らによる百官の拷問(夾棍)と莫大な献金の強要が連日行われ、多数の死者・自殺者を出した。奸淫・略奪も横行し、安福胡同では一夜に婦女三百七十余人が死んだという凄惨な状況が記録される。
勧進と即位
- 三月二十六日から勧進の動きが始まり、四月には官民による勧進が繰り返され、最終的に李自成は四月二十九日、武英殿で皇帝位に即いた(永昌元年、国号大順)と記される。
呉三桂と山海関
- 三月二十七日、呉三桂が大清の騎兵を率いて山海関に迫った経緯が触れられる(詳細は別条)。