明季北略薛国観賜死 思宗 崇禎十四年辛巳 1641年

薛国観の賜死

  • 正月、免職中の薛国観が呉昌時の指嗾による袁愷の弾劾に弁明したが皇帝は聞き入れず、八月に賜死・抄家となった。国観は温体仁の推薦で急速に出世し、皇帝の財政窮乏に乗じて外戚(李国瑞)に多額の献金を強要する策を進言し反感を買った。皇太子の病を機に外戚を薄遇した報いだとする噂が広まり皇帝も悔いた。国観はさらに太監王化民の怒りを買い失脚した。連座して中書舎人王升彦も処刑された(呉昌時の甥で、刑死に際し「舅の仕組んだことだ」と叫んだ)。
  • 著者は、皇帝が即位以来、袁崇煥・鄭鄤・楊一鵬・熊文燦・陳新甲を誅し、薛国観・周延儒にも死を賜ったことを「英断」と評しつつ、国観の私利に基づく蓄財策を批判している。

周延儒の再召

  • 辛巳四月、前大学士周延儒・張至発・賀逢聖が召還されたが、至発は出仕を辞退し、逢聖も間もなく病により帰郷、延儒のみが職務についた。延儒の再召には呉昌時らの尽力が大きく、延儒はこれに恩義を感じた。延儒が上京する前夜、亡き前妻の霊が夢に現れ上京を止めるよう告げたが延儒は従わず、後にその予言通りとなった。冬十月には裕国足奇謀異勇科という異例の推挙制度が設けられた。

幸学・内臣の権勢

  • 八月、皇帝は太学で釈奠礼を行い、宋の六儒(周・程・張・朱・邵)の位号昇格を礼部に諮問させた。九月には六子の書の編纂事業も開始された。
  • 皇帝の太学行幸に際し司礼監太監王徳化が群臣を率いて習儀した様子が、唐の魚朝恩や元の李邦寧の故事になぞらえられた。九月には東廠提督の京営総督への格上げ、十一月には朝臣が内閣・宦官に私通することの禁令、十二月には内操の停止と宦官の外政関与禁止令が出された。著者はこれらの措置が宦官の権勢増大の追認に他ならないと批判している。

黄道周の遣戍

  • 辛巳十二月、黄道周・解学竜が戍に遣られた。刑部尚書劉沢深は道周の罪状に対する疑義を上奏し「道周は建言のみで実害はなく、党を組んだ実態もない」と弁護、皇帝はこれを受け入れた。周延儒の再召に伴い名士らが奔走し、道周は死罪を免れ永遠戍に減刑された。獄中で『孝経』を百余本書写し、『易象正』を血だらけの指で完成させたという。戍地の辰州へ赴く途中、杭州・九江などで学問論議を続けた逸話が記される。

河南方面での李自成の攻勢

  • 辛巳正月、李自成が河南府を包囲。福王は死士を募って抗戦したが総兵王紹禹の兵に内応者が出て城が陥落、士民数十万が殺され福王府は焼かれた。福王とその世子(後の弘光帝)は城壁を越えて逃れたが、福王自身は捕らえられ、鹿肉と煮て「福禄酒」と称する宴で処刑された。この事件を受け皇帝は激怒し総兵王紹禹を磔刑に処した。旧兵部尚書呂維祺も殉節し、後に南京で忠節と諡された。
  • 二月、自成は富家の財を掠奪し河南府を占領するも、巡撫李仙風の反撃で守将を斬られ撤退した。

官吏の殉難

  • 汝州知州銭祚征は賊の攻勢をたびたび撃退したが崇禎十四年二月の攻城戦で戦死。宜陽知県唐啓泰も同年の陥落で殉節した。
  • 三月、李自成は帰徳府を陥落させ城壁を平地に破壊した。

牛金星・宋献策の帰参

  • 辛巳四月、罪を得て戍を待つ身であった盧氏県の貢生牛金星が李巌の推薦で自成に帰参し、娘婿として「右相」に任じられた。金星は劉宗敏を、また術士宋献策を推薦。献策は河洛の術に通じ「十八孩児、当主神器」の予言を献じて軍師となった。拔貢顧君恩ら人材も次々と自成に帰参した。

羅汝才の合流・傅宗竜の罵賊死

  • 七月、張献忠と不和になった羅汝才が自成に合流し勢力は五十万に達した。
  • 五月、兵部尚書傅宗竜が陝西兵を率いて討伐に赴いたが九月に大敗し、食糧が尽きる中で自成軍に包囲され、脱出を図るも捕らえられ罵り抜いて斬殺された。項城も陥落し屠殺された。

劉国能の自刎・李自成の闖王僭称

  • 九月、自成・汝才が葉県を陥落させ、降将劉国能は自刎して果てた。八歳の子も抱かれた末に自ら刃で命を絶った逸話が伝えられる。
  • 自成は洛陽陥落後、多くの偽の宣伝文で群盗を糾合し「闖王」を号した。著者はこの称号の起源が高迎祥にあり、自成が後にこれを継承した経緯を考証している。
  • 自成の兵は百万を超え、張献忠も合流の動きを見せた。著者は「勢」の重要性を説き、賊勢の強弱が一定でないことを論じている。

左良玉の臨潁屠戮・襄城の陥落

  • 十月、左良玉が臨潁を破り屠戮したが自成の反撃で郾城に退き包囲された。十一月、自成は襄城を再陥落させ、巡撫汪喬年・守将李万慶が死んだ。喬年は自成の祖先の墓を発掘し蛇を斬るなどして進軍したが、援軍が間に合わず自刎するも死にきれず捕らえられ殺害された。城内三万余人が屠殺された。

南陽陥落・河南諸州県の陥落

  • 自成は秦軍を再び破り南陽を包囲・陥落させ、総兵猛如虎らが戦死。唐王も遇害した。太監劉元斌の逃亡・不忠が咎められ翌年誅殺された。
  • 二月の開封包囲、六月の棗陽での官軍敗北、十一月の汪喬年の敗死、十二月の開封再包囲と官軍の水坡での敗北が記され、賊勢はますます盛んになった。
  • 十二月、洧州・許州・長葛・鄢陵・禹州が陥落し、多くの地方官が殉節した。鄧州知州劉振之の壮絶な最期(賊に十数刀を浴びせられながらも罵り続けた)や、その生涯・忠孝の逸話が詳述される。他にも段増輝、馬剛中、沈試、李夢宸、余爵ら多数の殉節者が記録される。

張献忠の襄陽陥落・楊嗣昌の自縊

  • 辛巳正月、張献忠・羅汝才は駅道を破壊しつつ東進、討伐軍の追撃を巧みにかわした。
  • 庚辰六月に左良玉が捕えていた献忠の妻子が、辛巳二月、襄陽知府王承曾の油断と内応者の手引きにより奪還され、襄陽は陥落した。献忠は襄王を殺害し遺体を焼き、府庫の金を飢民に分与した。推官姜曰広・兵備副使張克儉が殉節。楊嗣昌はこの報に接し自ら首を縊った。皇帝は嗣昌を罪せず、左良玉を削職戴罪とし、鄖撫袁継咸を一時逮捕したが後に赦免した。
  • 著者は嗣昌の失策を批判しつつも、処刑(斫棺戮屍)までは行わなかった皇帝の判断を評している。

隨州・泌陽方面の陥落

  • 辛巳四月、張献忠・羅汝才が隨州を陥落させ、知州徐世淳が一家もろとも殉節した。世淳の生涯と壮絶な死の経緯が詳述される。六月には宿松・英山・泌城なども次々陥落した。

山東・河南の土寇

  • 山東では李廷実・李鼎鉉らの土寇が高唐州を陥し、東平でも内応により城が陥落。魯王が私財を投じて防備した。
  • 河南でも各地に土寇が蜂起し、袁時中は一時二十万の勢力を得たが後に自成に殺され小袁営は滅んだ。泰安の土寇十余万も各地を掠奪した。

怪異の記録

  • 辛巳正月、黄霧が四方を塞ぎ日が青く光を失った。嘉興城で雷鳴のような音が響いた。二月、山西偏頭関で地鳴りがあった。六月、両京・山東・河南・浙江で旱蝗があった。無錫では長雨と旱魃が交互し、米価が高騰したことが記される。