飢民救済
- 閏正月、巡城御史に粥を炊かせて飢民を救済させ、帑金八千両を真定に、六千両を山東に発した。二月、砂嵐と旱魃が続き、直言を求める詔を出した。三月、畿南に三万金を分賑し、京師の貧民にも銭二百文ずつを配った。七月には帑金二万を順天・保定に、八月には河東の飢民に倉粟を発した。九月には難民の祭祀と暴露した遺骸の埋葬を命じ、冬十月には帑金一万両で古綿衣二万着を購い、京師の窮民に給した。
- 著者は、己卯・庚辰の交、皇帝が窮民への恩恵をしばしば下したにもかかわらず、地方官が法を盾に民を苦しめる姿勢を改めなかったことを痛惜している。
会試と欽賜進士
- 三月、建極殿で貢士を策問し、魏藻德を首席とした。閏正月、皇帝は文華殿で貢士に辺境の恥辱をどう雪ぐか問い、藻德は「大小の臣が恥を知れば功業は自ずと立つ」と長々と答え、戊寅年の守城の功も自ら述べたため、皇帝の記憶に残り首席に選ばれた。
- 新進士の召見では、趙玉森ら五名を翰林、周正儒ら五名を科臣、呉邦直ら五名を御史に抜擢し、呂陽ら十三名を吏・兵二部の主事とした。下第挙人の無錫華廷獻・江陰徐亮工らも進士とし「欽賜進士」と称された。
- 四月、科挙の考選は科目と貢生を併用するよう命じられたが、吏部の考選では挙貢を採らず、貢士と歳貢計二百六十三人を部寺の司属・推官知県に補せしめた(先例とはしないとの断り付き)。著者は、進士を重んじ挙人・貢生を軽んじる明制の弊を指摘しつつ、この措置を評している。
- 各官・巡撫按察に将材の推挙も命じられた。
黄道周の廷杖
- 庚辰四月、黄道周は先の召見の際の上言により江西布政司都事に左遷されたが、巡撫解学竜の推挙文に不穏当な貼り紙があったことで皇帝の怒りを買い、道周は「党を組み政を乱した」、学竜は「私情を働いた」として逮捕された。道周・学竜は各々杖八十を受け刑部の獄に下された。戸部主事葉廷秀が救済の疏を上げて杖百・除籍となり、太学生余仲吉も救済を訴えて杖百・戍を科された。両人とも動じず、道周・学竜は再度尋問された末、閩へ逮捕に赴いた官憲の厳しい取り立てにより南昌の紳士らが大金を醵出したが、多くは固辞し公費に充てられたと伝わる。
財政・辺防関連の建言
- 三月、参議鄭二陽は「実際に訓練された兵であれば定額の餉で足りる、財政の要は人材にある」と対答し、地方の疲弊への寛大な措置を進言し評価された。五月、内帑から三十万両を軍費に充て、山西按察副使魏士章の提言で全国の銭糧調査が行われ、六月には寺観の土地整理による財源確保も図られた。
- 四月、皇帝が宮中で仏事の斎醮を行ったことに給事中張采が「宗社の安危は仏の禍福によらない」と諫めたが聞かれなかった。同月、京城の濠の拡張にも給事中夏尚絅が「予算は辺防に回すべき」と諫めたが容れられなかった。
- 六月の科道官選考をめぐり、呉昌時は薛国観の措置に不満を抱いたという。
鄭鄤の磔刑
- 常州の鄭鄤は継母(大学士呉宗達の妹)との不和から母への虐待の疑いをかけられ崇禎八年に投獄されていたが、この年八月、市中で磔刑に処された。実際には巫女を使った継母への戒めの儀式であったとする詳しい経緯(鄭鄤本末)が記され、著者はこの事件の背後にある家庭内の確執と政争の構図を詳述している。
学者・隠士の死
- 湖広京山の学者郝敬は、かつて魏忠賢の専横を弾劾して左遷された経歴を持ち、この年冬、八十二歳で従容として世を去った。
- 華亭の隠逸文人陳継儒(眉公)は、若くして科挙を捨て隠棲し、朝廷の招聘にも応じず、この年八十二歳で酒宴の中、笑いながら大往生を遂げた。
術士鄭仰田・薛国観の免職
- 術士鄭仰田の逸話が記される(詳細略)。
- 庚辰六月、大学士薛国観が免職となった。もと温体仁の推薦で丁丑年に入閣し寵遇を得ていたが、皇帝から朝臣の収賄を問われた際「廠衛が有能なら朝臣は賄賂を取れぬはず」と答え、東廠の太監王化民の面目を潰したことから密かに陰事を調べられ失脚した。除籍後、給事中袁愷が再び弾劾し、尚書傅永淳・侍郎蔡奕琛らも取り調べを受け、都御史葉有声も収賄の疑いで投獄されるなど連座が広がった。
限田論・禁煙令
- 十一月、工部主事李振声が官品に応じて所有田地の上限を設ける(一品は田十頃・屋百間、以下逓減)ことを提案し、部議に付された。著者は井田制の理想は現実に行い難く、限田の議も富貴層の反対で実行困難であろうと評す。
- 煙草(蔫草)はもと辺境軍中の常用品であったが、庚辰、北方の郡県で厳しく禁じられた。無錫でも県令龐昌允が禁じたが賄賂で免れる者があった、との逸話が記される。
李自成、敗れて再び勢いを盛り返す
- 庚辰九月、秦軍が函谷で李自成を大破し、自成の部下はほぼ離散・降伏した。自成は漢南に逃れ窮地に陥ったが、養子李雙喜に救われ、部下に掠奪した女性を皆殺しにさせた上で五十騎で囲みを突破。河南の大飢饉で流民が数万集まり勢力を回復した。十一月、丁啓睿を陝西・山西・河南等の軍務総督に昇任させた。十二月、自成は永寧を陥し万安王を殺害、四十八の砦を破り宜陽を陥落させ、数十万の勢力となった。李巌がその参謀となり、掠奪品を飢民に分け与えたことで各地の支持を集めた。
- これに先立つ戊寅年、張献忠・羅汝才らと合流しかけたが献忠に殺されかけて逃れ、蜀に入り、己卯年に川から潜行して河南に入り洛陽を攻めたとの異説も記され、著者は諸書の年次の食い違いを検討している。
楊嗣昌の襄陽駐屯・羅汝才の入蜀・左良玉の大勝
- 庚辰、楊嗣昌は襄陽に駐屯して各軍を集め討伐に当たり、失期した監軍を斬るなどして統制を図った。羅汝才は信陽・光州を掠め、五月には過天星らと共に蜀に入り、監軍万元吉が夔門で防いだ。石柱の女将秦良玉も夔州救援に加わった。著者は秦良玉の忠勇を男勝りと称賛している。
- 六月、左良玉は降将劉国能を用いて張献忠を瑪瑙山で大破し、その妻子を捕えた。左良玉は献忠の眉間を射たことがあり、著者はこれを「二つの快事」と評しつつ、腹心の徐以顯・潘独鰲を処刑せず獄に留めたことを疑問視している。
- 五月、江北の羅田が陥落。七月、小秦王らが楊嗣昌に投降。人事をめぐり左良玉と賀人龍の間に確執が生じ、両者とも積極的に賊を追わなくなった。十月には献忠・汝才が大昌・剣州を陥した。
呉卿の兵弊論・張献忠の桐城包囲
- 黄梅の貢士呉卿が、流賊の狡猾さと官兵の腐敗(良民の首を斬って戦功に偽装する弊害)を指摘した。
- 陳石舫(樅陽の文士)の見聞として、庚辰九月、張献忠軍が桐城近郊を襲い、多数を殺戮したのち桐城城下に長期布陣した経緯が詳細に記される。献忠の軍営の構造、宴の様子、規律、捕虜の処遇(文人は登用、無用の者は殺害、少年は殺人訓練に用いる等)が詳述される。県令張拱極は堅牢な城壁により彌月持ちこたえ、総兵黄得功の来援で献忠は囲みを解いて去った。石舫自身も捕らえられ、旧知の賊将張義に助けられて九死に一生を得た顛末が語られる。
楊卓然の招撫・飢饉・怪異
- 十二月、監軍楊卓然が賊の招撫に赴いたが、賊は各地で猖獗を極め続けた。
- 七月、飢民が大行山に蜂起し賊に呼応。この年、両京・河南・山東・山西・浙江で大旱蝗があり、人が人を食い、道路が阻塞した。
- 正月十五夜、東方に黒気が三夜連続で立ち込め、二月朔には杭州城門が夜鳴いたなどの怪異が記される。また無錫では九月に赤・紅・黒三色の豆に似た物が降ったこと、張真人の祈雨の逸話、著者自身の見聞として旱魃・蝗害・米価高騰・無錫での搶米(米の強奪)騒動の詳細が記される。
山東の丐婦(乞食の女)
- 崇禎庚辰、旱害で流民化した山東の一組の男女が南京で物乞いをしていた。夫が病没すると妻は再嫁を拒み夫の後を追って絶食死し、耳飾りも売らずに夫と共に葬られた。著者はこの逸話を、貴人の妻女の不貞と対比して評している。