明季北略內臣 思宗 崇禎十二年己卯 1639年

宦官の勢威

  • 正月、密偵の功により太監王之心・曹化淳が世襲の錦衣衛百戸に蔭封された。七月には太監張栄が九門提督となり、朝臣が宦官へ接近することへの戒めも出されたが、著者はその実効性に疑問を呈している。

王承恩、夢を語り哭す

  • 崇禎帝がしばしば神人が掌に「有」の字を書く夢を見たことを群臣に語った際、多くは吉兆と祝したが、宦官王承恩だけは大いに泣いた。彼は「有」の字を分解すると「大」の字は一画欠け、「明」の字も一画欠けており、これは「大明の江山が半ば以上失われる」凶兆であると解釈し、崇禎帝を不快にさせた。

鄭二陽、兵餉を論ず

  • 三月、参議鄭二陽は「実際に訓練された兵であれば定額の餉で足りる、財政の要は人材の適否にある」と対答し、州県の疲弊への寛大な措置も進言して評価された。五月には内帑から三十万両を軍費に充て、山西按察副使魏士章の提言で全国の銭糧調査が行われ、六月には寺観の土地整理による財源確保も図られた。

内庭での斎醮

  • 四月、崇禎帝が宮中で仏事の斎醮を行ったことに対し、給事中張采は「宗社の安危は仏の禍福によるものではない」と正徳年間の失政を引いて諫めたが聞き入れられなかった。

京城の濠浚渫

  • 四月、京城の濠を拡張したが、給事中夏尚絅は「辺境の防備が破られている以上、濠だけでは防げない、この予算は辺境防備に使うべき」と諫めたが容れられなかった。

呉昌時、薛国観を恨む

  • 六月の科道官選考で、呉昌時は薛国観の措置に不満を抱いたという。

鄭鄤の磔刑

  • 常州の鄭鄤は継母(大学士呉宗達の妹)との不和から、母を杖打ちしたとの疑惑をかけられ、崇禎八年に投獄されていたが、この年八月、市中で磔刑に処された。実際には巫女を使った継母への戒めの儀式であったとする詳細な経緯(鄭鄤本末)が記録されており、著者はこの事件の背後にある家庭内の確執や政争の構図を詳しく分析している。

郝敬の死

  • 湖広京山の学者郝敬は、かつて魏忠賢の専横を弾劾して左遷された経歴を持ち、晩年は自ら墓を準備するなど独特の死生観で知られた。この年冬、八十二歳で従容として死を迎えた。

陳継儒の死

  • 華亭の隠逸文人陳継儒は、若くして科挙を捨て隠棲し、詩文・書画で名高く「眉公」として天下に知られた。度重なる朝廷の招聘にも応じず山水に親しむ生活を貫き、この年八十二歳で酒宴の中、笑いながら大往生を遂げた。

術士鄭仰田

  • 恵安出身の術士鄭仰田は、拆字(漢字の分解)による占いで名を馳せ、崇禎年間の宰相人事や魏忠賢の運命まで的中させたと伝えられる。丙子年冬には投獄中の銭謙益の運命も予言し的中させ、この年の春、自らの死期を予知して従容と逝去した。

左良玉、豫の賊を破る

  • 正月、河南巡撫常道立が賊を見逃した罪で罷免され李仙風が後任となった。二月、左良玉は許州で劉国能を大破し降伏させた。三月には内郷県でも賊を撃破したが、軍紀の乱れ(略奪)も問題視された。四月には李万慶ら四千人が投降した。

張献忠、再び叛く

  • 三月、劉良佐・易開遠らの勝利により賊は西へ追われ、張献忠・曹操(羅汝才)は房県・竹山の山中に逃れた。左良玉との激戦で献忠は矢傷を負いながらも脱出し、後に熊文燦に賄賂を贈って降伏を許され谷城に駐屯した。しかし熊文燦の無能な統治の下で密かに兵力を蓄え、己卯年五月、ついに谷城県令阮之鈿を殺害して再叛した。羅汝才もこれに応じ、両者は房県で合流。左良玉は追撃したが伏兵に遭い大敗し、熊文燦は職を追われ、良玉も降格処分となった。

房景春父子、死節す

  • 房県知県房景春は張献忠再叛の際、援軍要請も届かぬまま籠城を続け、城陥落後も屈服を拒み斬られた。子の鳴鸞も父の屍にすがって罵り、共に殺された。

楊嗣昌、熊文燦に代わる

  • 八月、大学士楊嗣昌は熊文燦の失敗の責を負う形で自ら督師を志願し、尚方剣と莫大な軍費を与えられて出征した。しかし着任後も熊文燦同様の招撫路線を踏襲し、左良玉を使い切れず賊の逃走を許すなど失策を重ねた。討伐失敗を偽りの戦果報告で糊塗する事例(処刑された知州の首を賊の首級として報告するなど)もあり、鄖陽・湖広の巡撫は頻繁に交代しながらも成果を上げられなかった(この記述には翌崇禎十三年の人事まで含めて付記されている)。

天変異象

  • 七月二十五日、無錫でイナゴの大群が空を覆い、農作物を食い尽くした。当局は米とイナゴを交換する策で捕獲を奨励し、住民は競って捕らえ焼くか埋めるかしたという。