明季北略袁繼咸論謫言官 思宗 崇禎七年甲戌 1634年

袁継咸、言官の左遷を論ず

  • 正月、給事中李世祺が大学士温体仁・呉宗達を弾劾したことで左遷された。山東提学袁継咸は「鳳凰を飼うなら鳴かせよ、鷹を飼うなら撃たせよ」と諫言し、言官の口を封じることの危険を訴えたが、崇禎帝は「職掌を越えて論じた」として叱責した。

袁継咸、宦官への拝礼を論ず

  • 二月、総理太監張彜憲が地方官の入朝拝謁の礼を整えるよう求め許可された。袁継咸はこれを、士大夫が天子に先立って宦官に頭を下げる恥辱であると強く批判したが、崇禎帝はまたも越権として退けた。

宦官の専横

  • 二月、登島監視太監魏相が給事中荘鰲献の監視制度廃止案に反発し、逆に荘鰲献が左遷された。五月、宦官の軍紀監督をめぐる相互告発(賀自鏡と孫茂霖・王坤の応酬)があったが、崇禎帝は問わなかった。六月には禁旅の功により太監曹化淳らに世襲の官職が与えられた。

監視太監の廃止

  • 六月、崇禎帝は各道の監視太監を撤回する詔を発した。崇禎二年冬の京師包囲を機に宦官による監督体制を敷いてきたが、軍制と財政がある程度整った現在は撤回すべきと判断した。ただし関寧方面の高起潜による監督は例外として存続させた。

倪元璐、監軍の撤回を請う

  • 十一月、侍読倪元璐は、辺境の将が宦官監軍に責任を転嫁し実効ある戦果を上げていない実情を指摘し、監軍制度の完全撤廃を求めたが聞き入れられなかった。

陳子壮、温体仁と不和になる

  • 礼部右侍郎陳子壮は、温体仁が皇帝の権威を絶対視する態度を示した際、世宗(嘉靖帝)の時代でさえ臣下が諫言を貫いた故事を引いて反論し、これにより温体仁との間に確執が生じた。

陳奇瑜、五省総督となる

  • 二月、陳奇瑜は兵部右侍郎として陝西・山西・河南・湖広・四川の軍務を総督することとなった。流賊が各省を移動する中、統一指揮の必要性から重臣による総督府設置が図られ、洪承疇は陝西三辺の要として留任、陳奇瑜が新たに任じられた。

李自成、降伏と離反を繰り返す

  • 洪承疇は曹文詔・曹変蛟・賀人龍らを率いて各地で賊を撃破し、張献忠・李自成は盩厔・鄠県方面に追われた。六月、陳奇瑜は李自成を漢中の車廂峡で包囲。四十日にわたる長雨で武器・軍馬が使い物にならなくなり、李自成は窮して降伏を願い出た。
  • しかし七月、鳳翔で降兵が偽って城内への進入を図り、守将に見抜かれて先鋒三十六人が殺される事件が起きた。陳奇瑜はこれを口実に地方官・郷紳五十余人を投獄させた。降伏した賊はその後も各地で離反・略奪を繰り返し、閏八月には勢力は二十万に膨れ上がり、九月には陝西各地を再び席巻した。
  • 陝西巡按傅永淳・山西巡撫呉牲は陳奇瑜の招撫策の失敗を厳しく批判し、十一月、陳奇瑜は総督を罷免された。十二月、洪承疇が兵部尚書として河南・山西・陝西・湖広・保定・真定の軍務総督に任じられた(三辺総督は留任)。著者は、降伏を許しながら結局は害をなす牌を与えたことの拙さを批判している。

高傑、賀人龍に降る

  • 八月、李自成の先鋒であった高傑(翻山鷂と称された)は、李自成の妾邢氏との密通が露見することを恐れ、賀人龍のもとへ投降した。これを機に劉良佐も帰順を考えるようになった。

龐瑜の殉節(付・王端冕)

  • 崇信知県龐瑜は城を守れないと知りつつ死を誓い、城陥落後も屈せず賊を罵り殺された。同郷の趙州知県王端冕も城を守り抜いた末、捕らえられて木に縛られ射殺された。

戴君恩、降賊王剛らを誘い斬る

  • 正月、太原巡撫戴君恩は、恩賞を要求する降賊王剛らを宴に誘い出し、四百二十九人をまとめて処刑した。この年は大旱で飢民が賊に加わる者が後を絶たなかった。

賊、陳州等を陥落させる

  • 七月、総兵尤世威の軍が敗れ、賊は盧氏・永寧を経て十月には陳州・霊宝、さらに盧氏を陥落させた。

盧象昇、楚の賊を討伐す

  • 正月、河南の賊が鄖陽から谷城・光化・新野・襄陽方面に侵入。四月、房県の賊は男より女の方が多いという異様な集団であった。六月、総督陳奇瑜・鄖陽巡撫盧象昇が竹山・竹渓の山賊を討伐し多くを討ち取った。

劉楚垣、荊門を守る

  • 荊門州の孝子劉楚垣は、賊来襲の際に自ら民兵を率いて城を守り抜き、賊を撃退した。

曹文衡、唐県を守る

  • 唐県出身の曹文衡は、宦官の讒言で一時帰郷を余儀なくされたが、賊の侵攻に際し県令王之良と共に砲による警報体制を敷いて城を守り抜いた。周辺の郷鎮は甚大な被害を受けたという。

龔元祥、霍山で賊を罵る

  • 霍山教諭龔元祥は、県令が逃げ去った後も民を率いて籠城し、城陥落後も屈服を拒んで賊を罵り殺された。同僚の姚允恭も後を追って殉節した。

熊文燦、戴罪自効す

  • 十二月、両広総督熊文燦は、海賊劉香老への招撫使節が捕らえられる失態を犯し、罪を負ったまま職務を続けることとなった。

童謡

  • 崇禎三年に温体仁が首相となった頃から「崇皇帝、温閣老、七年で首相となる」との童謡が流行し、「温」と「瘟(疫病)」の音が通じることから不吉の兆しとされた。この年、その予言通り人事の失当が流賊の跳梁を招いたと評される。

天変異象

  • 二月、海豊で血のような雨が降った。三月、陝西・山西で大飢饉となり人が人を食う惨状となった。四月、山西永寧州で蘇倚哥という者が父母を殺して炙り食うという未曾有の逆行が起きた。稚川で雷のような地震。鳳陽総督楊一鵬は、雀の嘴に鷹の翼、兎の足に鼠の爪を持つ奇怪な鳥の大群が淮泗一帯に飛来したことを報告した。五月、蝗害。六月、江西で飢饉。七月、敍州定遠堡の龍洞で銅鼓の音が一昼夜鳴り続けた。八月、大同の軍営に大流星が落下。九月、応天で地震、河南で大旱。著者は、父母を殺して食すという逆行を「天地開闢以来、未曾有の悖逆」と評し、聞くに堪えない、記すに堪えないと嘆いている。

大清兵、塞に入る

  • 七月七日、後金(大清)軍が大同張家口から侵入し、保安・懐来を経て京師が戒厳となった。宣府を包囲し天寿山に駐屯、永寧に進み、大同左衛を包囲して保安州を陥し知州閻生斗を殺害。朔州・渾源州を経て八月には代州を破り繁峙・八角・三坌へと分進、崞県・代県・霊丘県も陥落させた。閏八月、保定竹帛口を攻めて千総張修身を殺害し、宣府方面を経て塞外へ撤退した。