明季北略劾溫體仁 思宗 崇禎八年乙亥 1635年

温体仁の弾劾

  • 正月、兵部職方主事賀王盛は温体仁を「庸奸にして国を誤る」と弾劾したが左遷された。御史呉履中も温体仁・王応熊と監視の内臣を弾劾したが、崇禎帝はこれを叱責した。

文震孟の罷免

  • 文震孟、字湛持、蘇州の人。天啟二年状元。国事の危機を痛烈に論じた上疏で神宗の怒りを買い一時致仕。崇禎帝即位後に再登用され、崇禎八年七月には入閣したが、十一月、給事中許誉卿の処遇をめぐり温体仁・吏部尚書謝陞と対立し、大学士何吾騶と共に罷免された。著者は「温体仁を弾劾する者は必ず処罰され、温体仁に弾劾された者は即座に罷免される」と、その専横を嘆いている。

宗室子弟の任官

  • 正月、崇禎帝は祖訓に基づき郡王の子孫で才能ある者を登用する方針を示したが、侍郎陳子壮は「僥幸の門を開き藩規を乱す」と反対、帝の不興を買って投獄され翌年四月に釈放された。その後、任官した宗室の多くが不正を働いたという。

各官による人材推薦

  • 八月、崇禎帝は治世の要は守令にあるとして、両京の官に知府・州県官の推薦を義務付けた。

鄒維璉の帰郷

  • 鄒維璉はかつて魏忠賢を弾劾して左遷されたが、崇禎初年に福建で流賊討伐に功を挙げた。しかし才能を妬まれて退けられ、崇禎八年(乙亥)に兵部侍郎に再登用されるも間もなく帰郷し、まもなく世を去った。

董其昌の致仕

  • 董其昌、字元宰、号思白、華亭の人。書画で天下に名高く、崇禎八年(乙亥)、礼部尚書兼太子太保として致仕、その二年後に八十二歳で没した。

曹文詔の自刎

  • 陝西の賊討伐において洪承疇が卓越した指揮を見せる一方、楊嗣昌はその功績を妬んだ。正月、賊が霊台を陥し、二月には寧羌、六月には西和が陥落。陝西巡撫李喬は無能を理由に罷免され甘学闊が後任となった。六月二十八日、勇将曹文詔は力尽きて自刎した。文詔は多くの賊を討ち取り官軍の士気を支えていた人物であり、その死は大きな打撃となった。七月には澄城、八月には咸陽も陥落した。

河南に賊が充満す

  • 正月、賊が滎陽・泛水・固始を陥落させた。給事中常自裕は、中原の防衛が左良玉ら少数の兵に頼りきりである実情を憂い、辺兵の増派と有能な将の登用を求めた。六月、河南巡撫元黙が無能を理由に投獄され、陳必謙が後任となり盧象昇と協力して各地で賊を撃破したが、赦免の詔が出るとかえって賊の欺瞞を招き、副将王進忠が単身賊営に入って殺害される事件も起きた。十月には陝州が陥落、十二月には闖王・曹操ら数十万の賊が光州を大砲で攻め落とし、住民が皆殺しにされる惨事が起きた。

盧象昇の戦功

  • 盧象昇、字建闘、宜興の人。少年期より睢陽の張巡・岳飛を敬慕し、崇禎二年の勤王を機に軍歴を重ねた。負傷しながらも賊軍を打ち破り「盧閻王」と恐れられた。崇禎七年(甲戌,1634年)には鄖陽を、八年(乙亥,1635年)には楚を巡撫し、祖寛と共に洛陽方面で連戦連勝。兵部侍郎に昇進し直隷・河南・山東・四川など七省の軍務総督となり尚方剣を賜った。乙亥年末、滁州の危急を救援し賊を大破したが、淮陽総督朱大典の連携不足で賊を取り逃がした。

爬天王を捕らえる

  • 二月、蘄黄の大盗爬天王が村人に捕らえられた。身長八尺、自ら「天が我を滅ぼすのであって我が罪ではない」と語ったという。

流賊、潁川を陥す

  • 崇禎七年(甲戌)十一月、賊は英山・霍山を陥落させ拠点とした。八年(乙亥)正月、霍丘、続いて潁川が陥落。知州尹夢鰲は民兵を率いて奮戦したが民衆が離散し、単身刀を振るって十七人を斬った末に入水自殺した。通判趙士寛も同様に入水し、妻子は縊死した。兵部尚書張鶴鳴の子張大同は、賊に父の居場所を問われても頑として答えず凄惨な最期を遂げた。

賊、鳳陽を陥す

  • 崇禎七年正月、南京兵部尚書呂維祺は鳳陽・泗州が皇陵の地であるとして防備の強化を求めていたが、賊は元宵節の賑わいに乗じて偽装した先遣隊を城内に潜入させ、鳳陽を陥落させた。皇陵・享殿が焼かれ、松三十万株が燃やされ、守陵の宦官六十余人が殺害された。知府顔容暄は捕らえられ杖殺され、士民数万人が犠牲となった。賊は「古元真龍皇帝」を自称し三日間略奪を続けた末、太監盧九徳・総兵楊御蕃らの救援でようやく南下し廬州方面へ向かった。
  • この惨劇の中、鳳陽司理万文英の子万元亨は十六歳ながら父の身代わりとなって賊を罵り殺された。侍読程正揆の母傅氏と妻舒氏は、鳳陽陥落の混乱の中で惨殺された(後に恭人の贈位と旌表を受けた)。崇禎帝はこの報に接し、経筵を中止し素服して太廟に祭告、罪己詔を発し(十月)、巡撫楊一鵬は処刑、御史呉振纓は流刑となった。十二月、鳳陽はついに城壁の築造に着手した。

方震孺、寿州を守る

  • 方震孺はかつて魏忠賢を弾劾し投獄された経験を持つ人物で、崇禎八年正月、寿州に賊が迫った際、私財を投じて城を守り抜き、賊を撃退した。後に広西巡撫となったが、弘光朝では馬士英・阮大鋮に疎まれ失意のうちに没した。

呉大樸、廬州を守る(付・野編)

  • 正月、張献忠は鳳陽から廬州を包囲。知府呉大樸は民衆と共に巧妙な防御工事(磚石で街路を固め、隠し窓から迎撃)で七昼夜の攻防を凌ぎ抜いた。侍妾が指を噛んで血を大砲に捧げる祭祀を行い、これで撃った砲弾が敵将「二大王」を斃したという逸話も伝わる。同年十二月、李自成の攻撃も六日間耐えて撃退した(崇禎十四年・十五年にも再度の攻防があったことが付記される)。

賊、巣県を陥す

  • 正月、賊が柘皋を経て巣県を襲撃。知県は当初流賊来襲を信じず対応が遅れ、内応者の手引きもあって城は陥落、知県とその家族の多くが殺害された。次女は賊を罵って殺されるなど、抵抗の記録が残る。

章可試、舒城を守る

  • 正月二十四日、知県章可試は賊を陥穽に誘い込み千人を殲滅したが、賊は霍山・合肥方面で婦人を辱める残虐な行為に及んだ。

賊、廬江を襲う

  • 正月二十七日、賊は廬江の住民が財貨で和を求めたのを偽って受け入れ、夜襲で城を陥落させた。

賊、無為州を陥す

  • 正月二十八日、賊が無為州を襲い、守備の兵が奮戦したが衆寡敵せず州は陥落した。

包文達、宿松で殉節す

  • 世襲の武官包文達は安慶防衛に従軍し、指揮系統の不和と装備不足の中で賊の伏兵に遭い、力戦の末に討たれた。

石電の戦死

  • 常熟の石電は槍術に優れた人物で、包文達の遠征に従軍。宿松での戦闘で友を救おうとして賊に囲まれ、首を斬られてなお立って戦う姿勢を保ったまま絶命したと伝えられる。

黎宏業、和州で自縊す

  • 十二月、賊が含山・和州を襲撃。知州黎宏業は民衆と共に籠城戦を戦い抜いたが、最終的に城は陥落し、黎宏業は「官として民に背かず、臣として君に背かず」との遺書を残して自縊した。学正康正諫らも殉節した。
  • 進士馬如蛟は私財を投じて郷勇を組織し黎宏業と共に城を守ったが、風変わりの中で城が破れると巷戦を続け、最後は川に飛び込まず力戦して死んだ。
  • 賊魁混天王は和州占領中、寵愛した美女に絞殺されるという因果応報の逸話も伝わる。また智謀に長けた甘氏という婦人が、賊将を欺いて毒殺し財貨を持ち帰ったという野史の逸話も記される。

李継樾、江浦を守る

  • 十二月三十日、賊は江浦を包囲したが、知県李継樾は南京からの援軍と協力し、方言による内通者の識別など巧みな防諜策を講じて城を守り抜き、追撃戦でも賊を撃退した。著者は、周辺諸城が次々と陥落する中で江浦のような小城が持ちこたえたことを高く評価している。

鄭芝龍、劉香老を撃つ

  • かつて海賊であった鄭芝龍は崇禎元年に招撫され遊撃となった。崇禎五年(壬申,1632年)以降、海賊劉香老と度々交戦し、乙亥年四月、四尾遠洋でついに劉香老を撃破、劉香老は追い詰められて入水自殺した。この功により鄭芝龍は勢力を拡大し、独自の海上権益を築いていった。

鄭芝龍小伝

  • 鄭芝龍、号飛黄、福建漳州の人。若くして家庭内の不祥事から出奔し日本へ渡り、後の鄭成功の母となる女性と結ばれた。帰路で海賊に捕らえられたが機知で信頼を得て台頭し、海賊集団の主となった。後に朝廷に招撫され副総兵にまで昇進、劉香を討って海上を平定した。弘光朝では靖海侯に封じられ、隆武朝では国姓を賜るなど栄達を極めたが、最終的に清に降った。

孝子馮時化

  • 無錫の馮時化は母の病に自らの肉を割いて薬とし、拾った金を三日間守って持ち主に返すなど、篤実な人柄で知られた。

貞女鄭氏の表彰

  • 馬世奇の長子瑜の許嫁鄭氏は、瑜の死を聞いて自ら髪を切り身を投げようとするなど激しい貞節を示し、嫁いで三年の喪に服した。順治年間、その節義が表彰された。

天変異象

  • 七月一日、山西汾州府臨県で三日間の大雷雨と雹害があり、二尺余りの積雹で作物に被害が出た。九月二十五日、火星(熒惑)が太微垣を犯す天文異変があった。