明季北略周延儒罷相 思宗 崇禎六年癸酉 1633年

周延儒の罷免

  • 周延儒は崇禎元年に礼部右侍郎、二年に入閣。この年正月、宣府の閲視太監王坤の弾劾を受け辞任を願い出た。左副都御史王志道が「宦官が輔臣を弾劾するのは紀綱の乱れ」と諫めたが、崇禎帝は宦官起用の必要性を説いて志道を叱責。結局、周延儒自身が「志道の意図は我々の職務怠慢を責めるもの」と取りなしたことで帝の怒りは和らいだが、志道は退けられ、周延儒も帰郷となった。

知県・推官の登用

  • 二月、吏部に対し、館員の選考を進士出身者に偏らせず、地方の知県・推官の実務経験者を重視するよう命じた。多事の時勢にあって地方の実情に通じた人材を求める方針転換であった。

宦官による軍紀監督

  • 五月、流賊討伐の各軍に太監陳大金・閻思印・謝文挙・孫茂霖を監紀として派遣し、曹文詔・左良玉らの陣営で功罪を記録させ、内帑四万両と反物を軍前の褒賞に充てさせた。著者はこれを唐の魚朝恩の「観軍容使」の故事になぞらえ、宦官に軍国の重事を委ねる弊害を厳しく批判している。

山西の賊

  • 三月、山西で賊将満天星が生け捕られるなど各地で戦闘が続いたが、賊は平順・河順・楽平・永和・沁水を陥落させ、十月には五臺山に拠って官軍も攻めあぐねた。

河南の諸賊との攻防

  • 正月から左良玉・曹文詔・湯九州ら官軍と河南各地の流賊との激戦が続いた。左良玉は当初武安で大敗するなど苦戦したが、次第に鄧玘・湯九州らと連携して各地で賊を撃破し、混天王・混天猴ら賊首を討ち取った。
  • 十二月、賊は黄河を渡って澠池・伊陽・盧氏を陥落させ河南各地を蹂躙したが、巡撫元黙・湯九州らの奇襲や左良玉の連戦連勝により、翌年(崇禎七年)正月には賊は楚方面へ敗走し、河南はようやく平静を取り戻した。賊が最も恐れたのは曹文詔とその配下曹変蛟であり、「軍中に一人の曹あり、流賊これを聞けば肝を冷やす」という俗謡も生まれた。

賊、湖広を侵す

  • 十二月、賊が香客を装って鄖西を侵し、上津を陥落させた。

鄧祖禹、賊を罵る

  • 鄧祖禹、字又元、湖広蘄水の人。かつて瀋陽で後金軍と戦い重傷を負いながらも生還した勇将であったが、応城救援に赴いた際に包囲され捕らえられた。賊は彼を敬い盟主に迎えようとしたが、鄧祖禹は罵り続けて拒み、張献忠の怒りを買って心臓を抉り出され殺された。

附記(鄧祖禹と高迎祥の戦い)

  • 鄧祖禹は総兵張全昌ら諸将を率いて高迎祥・馬守応・羅汝才らの軍と激戦し、多くの部下を失いながらも屈服を拒み続けた。高迎祥は最終的に鄧祖禹を殺害したが、その最期の忠義には賊将さえも「真の忠臣である」と嘆じたと伝えられる。応城県令張紹登も賊を罵って処刑された。

陳奇瑜、関陝に威を著す

  • 八月、陝西で賊が隆德を攻め知県曹彦芳を殺害、参政陸夢竜も戦死した。延綏巡撫陳奇瑜は永寧関に拠っていた賊首鑽天哨・開山斧を、偽って総制の檄と称し奇襲で潰走させ、千六百級を斬るなど延水の賊をほぼ平定し、関陝一帯にその威名を著した。

天変異象

  • 正月一日、大風で砂塵が舞い、太陽の両脇に日珥が生じた。二月、建昌軍で一頭二胴八蹄二尾の奇形の豚が生まれた。六月、河南で大旱魃、密県の民婦が「旱魃」(日照りをもたらす妖怪)を産んだが水をかけると雨が降ったという。八月、襄城県に西北から数万のバッタが飛来し、識者はこれを兵乱の兆しと占った。十一月、洮州衛で地震。定遠堡の龍洞内で銅鼓が鳴る怪異があり、かつて奢崇明の乱の際や崇禎二年の後金軍侵入の際にも同様の前兆があったと伝えられる。この年、陝西・山西は大飢饉であった。
  • 六月二十四日、江南一帯で猛烈な暴風雨があり、水位が三、四尺も上昇し、壁が倒れ人が圧死する被害が出た。靖江では夜半に川の水が城内に流れ込み城壁の半分が崩れた。著者は幼少期にこの嵐を体験した記憶を記し、父が「今年は凶作になるだろう」と嘆いたことを回想している。著者はまた、河南の地に西方由来の虫(莎鶏)が飛来したことを、邵雍が杜鵑の声から南人が宰相になる予兆を読んだ故事になぞらえ、地の気が東から南へ移る兆し、すなわち後金(清)が中国を得る予兆ではないかと論じている。