明季北略思宗烈皇帝 思宗 崇禎元年戊辰 1628年

倪元璐、東林を論ず

  • 正月、翰林編修倪元璐は、崔呈秀・魏忠賢を弾劾した者まで一律に「東林党」と貶めることの不当を論じ、東林の人材を全否定すべきでないと上奏した。崇禎帝は書院の勝手な再興は認めないとしつつも、公平な人材登用の方針を示した。

瞿式耜の「六不平」

  • 給事中瞿式耜は、梃撃・紅丸・移宮の三案や熊廷弼の処断などをめぐる評価の不公平を六点にわたって論じた。王之寀の冷遇、崔文升・李可灼への寛大な処分、楊漣の移宮の功が不当に貶められていること、楊鎬・王化貞が処罰を免れる一方で熊廷弼だけが厳罰に処されたこと、王安との関係を口実に楊漣・左光斗を魏忠賢一党と同列視すること、魏広微・顧秉謙・馮銓・黄立極ら魏党の大臣が処罰を免れていることを痛烈に批判した。

韓一良、賄賂を論ず

  • 六月、戸科給事中韓一良は、地方官の贈収賄の構造(俸給の少なさから上司への付け届けが常態化している実態)を率直に論じ、崇禎帝はこれを評価して右僉都御史に抜擢した。

劉宗周、近功小利を論ず

  • 九月、順天府尹劉宗周は、遼東の軍事と財政の両面で目先の成果を急ぐ弊害を論じ、軍を養うほど軍が驕り、徴税を厳しくするほど民が疲弊すると警告した。後の事態はこの予見どおりに進んだと評される。

温体仁、銭謙益を弾劾す

  • 十一月、温体仁は銭謙益が浙江郷試での不正な便宜(賄賂による合格操作)に関与したと弾劾。崇禎帝は温体仁と銭謙益を対質させ、結局銭謙益は帰郷して取り調べを受けることとなった。

袁崇煥の陛見

  • かつて袁崇煥は寧遠で和議路線を主張し、天啟六・七年に後金との交渉を図ったが崇禎帝は疑念を示していた。崇禎元年七月、袁崇煥は平台で謁見し「五年で辺境を平定する」と大言。閣臣らも賞賛し、崇禎帝も喜んで尚方剣を賜った。
  • しかし退出後、識者は「五年後に成果を問われれば崇煥の身も危うい」と評した。この頃、後金は降将李永芳の献策により袁崇煥を通じて毛文龍を除かせようと画策しており、崇煥も密かにこれに応じ、毛文龍の兵糧を大幅に削減させた。屯田主事徐爾一は、遼東で戦った歴代の将帥の中でも毛文龍の功績は際立つとして、兵糧削減に反対する上奏を行ったが顧みられなかった。

毛文龍、鴨緑江の勝利

  • 崇禎元年、後金の五王・六王と劉愛塔が二万の兵で鎮江に来攻したが、毛文龍は八千の兵でこれを迎え撃ち、劉愛塔は敗れて降伏した。後金はこれを機に密かに袁崇煥と通じ、毛文龍除去の計画を進めた。

大清、諸部落を収める

  • かつて広寧塞外の諸部族は明から恩賞を受けていたが、朝廷がこれを打ち切り、飢饉の際の救済も拒んだため、諸部族は明から離反し後金(大清)に帰属した。これにより辺境の情勢は決定的に悪化した(元年七月の出来事)。

寧遠の兵変

  • 七月、寧遠の軍が四か月分の軍糧未払いを理由に暴動を起こし、巡撫畢自粛・総兵朱梅・推官蘇涵を捕らえて打擲、賞金を強要した。畢自粛は責任を取って自ら首を吊り、袁崇煥は首謀者数名を処罰したが、実際に糧秣を出し渋っていたのは戸部であったと著者は指摘し、処罰の的外れさが後の錦州の兵変を招いたと評している。

流賊の起こり

  • 流賊の淵源は、脱走兵・駅卒・飢民・馬賊・難民など六種の人々にあるとされ、特に陝西で盛んであった。崇禎初年、西安府長安県の富豪銭文俊と総兵王国興配下の兵士との金銭トラブルが端緒となり、兵士たちが暴動を起こして文俊一家を殺害、獄を破って蜂起した。
  • 集まった飢民・無頼は万を数え、闖王高迎祥・混天王・掃地王・整世王・塌天王劉国能・混世王・過天曉張五・満天星・曹操羅汝才・老回回馬守応ら十人の頭目が推戴された。これが流賊の始まりとされる。

漢南の盗賊蜂起

  • 十月、漢南で盗賊四百余人が土着の賊三千余人を糾合し、略陽から漢中方面へ侵攻した。

白水の盗王二

  • 十一月、延綏の飢饉に乗じて府谷の民王嘉允が蜂起し、白水県の盗王二も山西の逃兵と合流して各地を略奪。陝西巡撫胡廷宴は事態を軽視し訴えを退けたため、賊はさらに勢力を拡大し宜君県の獄を破って合流した。

天変異象

  • 三月二十日未明、陝西で空が血のように赤くなった。五月、西安府城で夜に隕石状の火の玉が数十落下したが、民は禳いを行い被害はなかった。

五虎五彪の処断

  • 正月二十六日、魏忠賢一党の李夔龍・呉淳夫・倪文煥・田吉ら「五虎」は財産没収の上で軍役に、田爾耕・許顕純ら「五彪」は処刑、崔応元・楊寰・孫雲鶴は辺地への軍役に処され、権臣に阿附した者への戒めとされた。