明季北略劉懋請裁驛遞 思宗 崇禎二年己巳 1629年
劉懋、駅逓の廃止を請う
- 崇禎帝は即位当初から財政緊縮を志し、給事中劉懋の建議により駅逓(宿駅制度)を大幅に削減、年数十万両の節約を図った。しかし秦・晋の貧民の多くが駅逓関連の労働で生計を立てていたため失業者が急増し、陝西の飢饉と重なって流民が盗賊化する一因となった。給事中許国栄・御史姜思睿らが撤回を求めたが容れられず、劉懋は民の恨みを買い、その死後、棺を運ぶ者すらいなかったという。
- 著者は、駅逓制度は元来力ある貧民を働かせて悪事に走らせない仕組みであり、冗費だけを整理すれば足りたはずで、性急な全廃が貧民を盗賊に追いやったと批判している。制度の沿革(洪武・嘉靖・万暦年間の勘合制度の整備)を詳述した上で、天啟末年の濫用が弊害の実質的な始まりであったとも指摘する。
- 崇禎二年五月三日には、衍聖公・張真人・顔曾思孟五経博士家などへの駅逓支給を定数まで削減する措置が定められた。
毛羽健、衛軍と屯田を論ず
- 四月十一日、雲南道御史毛羽健は、太祖以来の衛所軍・屯田制度が形骸化し、京営兵・衛所兵ともに実戦で使い物にならなくなっている実情を歴代の事例を挙げて論じた。屯田の横領・売買が横行し兵員が失われている現状を憂い、各省兵巡道に屯田管理を一任し、逃亡兵の追跡・屯田の回復を徹底すべきと提言した。
張延登、海禁の強化を請う
- 四月十八日、浙江巡撫張延登は、鄭芝龍配下から離反した海賊が浙江・福建海域を跳梁している実情を報告し、密貿易船(杉木船・釣魚船・奸船)の取り締まり強化による海禁の徹底を提言した。
南居益、軍餉の支給を請う
- 三月二十八日、陝西戸部侍郎南居益は、延綏・寧夏・固原三鎮の軍糧が三十六か月分も滞っている窮状と、それに伴う陝西各地での略奪・暴動の激化を報告し、三十万両の緊急支給を求めた。
無錫の災荒(民間の上奏)
- 天啟四年から七年にかけて無錫は水害・旱魃・蝗害に相次いで見舞われ、田の稲が虫害で全滅し、農民の自殺や共食い同然の惨状が報告された。無錫・宜興は九割、武進は八割の被害とされ、地方官が減税を訴えたが戸部尚書王家禎らはこれを認めなかった。
馬懋才、大飢饉を詳述す(崇禎二年四月二十六日の上奏)
- 陝西安塞県出身の馬懋才は、延安府の大旱魃による惨状を報告した。民は蓬草、次いで木の皮、ついには石粉まで食し、飢えて死ぬよりはと盗賊になる者が相次いだ。子を捨てる者、人肉を食う者まで現れ、掩埋の穴は数百人分がすぐに満杯になったという。撫臣岳和声の粥の施しも焼け石に水であり、著者はこれが李自成らの蜂起を招いた「天の与えた飢饉」であったと評している。
桂王の寝殿倒壊
- 四月二十七日、桂王常瀛は、王府の造営を担当した宦官らの手抜き工事により、崇禎元年九月と崇禎二年三月の二度にわたり寝殿・正殿が倒壊し、女官六名が圧死したことを上奏した。著者はこれを、後の桂王の両広への逃避行の凶兆であったと評している。
倪元璐、三案の書の廃棄を請う
- 倪元璐は、梃撃・紅丸・移宮の三案そのものは公論として存続してよいが、魏忠賢一党が編纂した「三朝要典」は私的な讒書であり、東林弾圧の道具として使われた以上、速やかに焼却すべきと上奏し、崇禎帝はこれを容れて三朝要典を廃棄させた。無錫の華琪芳はかつてこの編纂に加わったことを終生悔いたという。
欽定逆案
- 二月、魏忠賢・客氏の一党に対する最終的な処断が下され、崔呈秀ら「首逆同謀」六名、劉志選ら「結交近侍」十九名、魏広微ら次等十一名、東平侯魏志徳ら「逆孽軍犯」三十五名、内監ら「諂附擁戴」十五名、顧秉謙ら「結交近侍末等」百二十八名、黄立極ら「祠頌」四十四名と、七等に分けて罪が定められた。
喬応甲、禍を醸す
- 正月六日、撫治鄖陽都御史梁応沢が漢南の盗賊の急を報告。刑科給事中薛国観は、前任の喬応甲が盗賊を放置したことが今日の禍の原因であると弾劾し、吏治の刷新を求めた。固原の逃亡兵は涇陽・富平を相次いで略奪した。
劉応遇、賊を破る
- 二月二十日、商洛道劉応遇は四川の兵と合流して漢南の盗賊を撃破し、渠魁数十人を誅殺、残党は蜀へ逃れて漢南の盗賊は鎮圧された。
混天王、延川等県を騒がす
- 三月以降、流賊は真寧・寧州・安化・三水・涇陽・甘峪などを次々に襲撃。九月には後金(大清)軍が薊州を包囲し、十一月には北京が戒厳となり、諸方に勤王の兵を集めたが、保定の援軍は真っ先に潰走するなど混乱した。混天王らは延川・米脂・清澗を荒らし、旧総兵杜文煥が再び討伐に当たった。
呉煥、秦の賊情を奏す
- 四月、陝西巡按御史呉煥は、陝西巡撫胡廷宴と延綏巡撫岳和声がそれぞれ責任を辺兵・内地に押し付け合い、実効ある対策を取らなかったことが賊禍を助長したと指摘した。
李自成の出自
- 李自成、陝西延安府米脂県雙泉堡の人。万暦三十四年丙午(1606年)生まれ。少年期から武芸を好み、関帝廟で鉄の香炉を持ち上げる怪力を示し、「自成」の名を称するようになった逸話が伝わる。
- 妻韓氏の不貞を知り殺害、役人への贈賄が露見して知県艾氏をも殺し、甘粛へ逃亡。総兵楊肇基の下で従軍し、闖王高如嶽(あるいは高迎祥ともいう)と義兄弟の契りを結ぶなど各地の盗賊集団と関わりを深めた。金県で参将殺害に関与し、崇禎二年己巳の冬、後金軍の北京侵攻(勤王)を機に諸勢力が離反・合流する中で流賊の一勢力として台頭していった。
袁崇煥、毛文龍を謀殺す
- 三月、袁崇煥は東江(皮島)の兵糧を寧遠経由に一本化し、毛文龍の兵力を二万八千人に縮小させた。文龍は不満を訴えたが崇煥は聞き入れず、六月、双島で会見。犒賞と称して文龍配下を油断させた上で、崇煥は文龍に「上意」と称して十二の罪を挙げ、旗牌官張国柄に斬らせた。文龍は「督師の権限だけでどうして私を殺せるのか」と抗弁したが、最後は朝廷への服従を示して従容と死についた。
- 崇煥は文龍の死を上奏する一方で自らも処罰を願い出たが、崇禎帝は文龍を「驕慢」として崇煥を慰留した。文龍の軍は毛承祿・劉興祚・陳継盛らに分割された。
鍾万里、夢を解く
- 毛文龍の妻張氏の縁者鍾万里は、かつて文龍が見た夢(韓信・田横の故事になぞらえたもの)を解き、文龍が孤島で最期を迎えることを予言していたと語った。著者は、崇煥が偽りの罪状で文龍を殺したことを、秦檜が十二の金牌で岳飛を陥れた故事になぞらえて批判している。
袁崇煥、後金と通じ満桂を射る
- 文龍死後、崇煥は密かに後金と和議を通じたが、後金は喜峰口の守りが手薄になった隙を突いて九月、長城を越えて遵化を包囲した。崇煥は救援に赴いたが後金軍に「お前が招いたのに何故妨げるのか」と皮肉られる有様であった。
- 十一月、遵化が陥落し巡撫王元雅は自刎、総兵朱国彦夫妻も殉節。都督趙率教も戦死した。後金軍は薊州から通州へと進み北京に迫った。この過程で、山海関総兵満桂が救援に駆けつけた際、崇煥軍から矢を受け、後に検分の結果それが崇煥軍の矢であったことが判明し、通敵の疑いが決定的となった。
袁崇煥の逮捕
- 十二月、崇禎帝は崇煥を召し、満桂・祖大壽らも同席させた上で、毛文龍殺害・後金軍の侵入招致・満桂を射た三事について詰問した。崇煥は答えられず、その場で錦衣衛に捕縛され鎮撫司に投獄された。翌年(崇禎三年)四月、磔刑に処され、民衆は争ってその肉を買い求め食したと伝えられる。
満桂の戦死
- 十二月十七日、満桂は五千の兵で安定門外に布陣し後金軍と激戦。十余度の戦闘の末、矢を受けて落馬し戦死した。申甫も夜襲で戦死、黒雲龍・麻登雲は捕らえられた。各省の援軍が集結したことでようやく後金軍は撤退した。
劉之綸の死節
- 蜀の劉之綸は理学を修め「必ず聖人となる」と自負した人物で、崇禎帝に登用され戎政を協理した。満桂・申甫の戦死後、自ら出撃して後金軍と戦い、砲の暴発などの不運もあって力戦の末に矢を受けて戦死した。
党還醇、良郷で殉難す
- 良郷知県党還醇は後金軍来襲時に力戦して援軍なきまま戦死した。他にも保定推官李献明、永平知府張鳳奇など多くの地方官が城を守って命を落とした。著者は、各城の対応の巧拙(永清・昌黎などは備えがあり無事だったが、多くの城は人心が定まらず陥落した)を詳しく論評している。
商敬石の善射
- 通州の響馬(馬賊)商敬石ら十二騎が後金の裨将の一隊を迎え撃ち、矢を的確に命中させて多数を倒し、後に官軍に編入されて功を認められた。
左応選、昌黎を固守す
- 昌黎知県左応選は着任早々の後金軍来襲に際し、火薬を用いた巧みな防御戦術で城を守り抜いた。
何大綱、敵将を斬る
- 何大綱・張洪詩は后金軍を撃退し敵将を討ち取った。馬世龍も追撃して輜重を奪還し、後金軍はようやく長城の外へ撤退した。北京はおよそ四十日にわたり包囲された。
天変異象
- この年、江陰の城壁が鳴動する怪異があった。十七年後の順治二年乙酉、江陰は清軍により屠城の惨事に見舞われることになる。