舊唐書卷二百下 列傳第一百五十下 朱泚
幽州昌平の出身で、幽州盧龍節度使から入朝して鳳翔節度使・太尉に至った朱泚(?–784年、享年43)。建中4年(783年)の涇原の乱に乗じて反乱軍に擁立され、大秦皇帝・のち漢の天皇と僭称して唐朝に対抗したが、奉天包囲戦に失敗し敗走の末、配下に討たれて滅んだ。
年表(10件)
- 大暦7年772年希彩暗殺の混乱に乗じ留後を代行、幽州盧龍節度等使に任じられる
- 大暦9年774年河北諸鎮で例のなかった入朝を果たし検校戸部尚書加授
- 建中3年782年4月、鳳翔隴右節度留後を交代させられ京師に留め置かれる
- 建中4年783年10月、涇原の兵の反乱に乗じ叛卒に擁立され含元殿に入居
- 建中4年783年10月8日、大秦皇帝を僭称し応天元年と改元
- 建中4年783年10月10日、自ら奉天を攻めるも渾瑊・韓遊瑰に大敗
- 建中4年783年11月30日、京城に逃げ帰る
- 興元元年784年正月1日、国号を「漢」・天皇元年と改元
- 興元元年784年5月28日、王師に京師を回復される
- 興元元年784年彭原県西城屯で配下に討たれ死去(享年43)
出自と幽州での台頭
- 朱泚は幽州昌平の人。曾祖利は贊善大夫、祖思明は太子洗馬、父懷珪は范陽節度使裴寛の衙前を経て折衝将軍、安史の乱では管兵将を務め、李懐仙帰順後は薊州刺史・平盧軍留後・柳城軍使、大暦元年(766年)卒。祖・父への贈位は泚の出世によるもの。
- 泚は父の縁で従軍、体躯偉丈夫(腰帯十囲)だが騎射の武芸は目立たず、外見は寛和・内実は残忍。財を惜しまず戦利品を部下に分け与え人望を集めた。李懐仙の部将から経略副使、朱希彩の苛政の下でも重用された。
- 大暦7年(772年)希彩暗殺の混乱に乗じ、弟朱滔の策謀により将士に推戴され留後を代行、幽州盧龍節度等使に任じられた。同年弟滔に2500の兵を率いさせ京西防秋に赴かせ代宗の褒賞を受けた。
入朝と鳳翔節度使
- 大暦9年(774年)検校戸部尚書加授。河北諸鎮で例のなかった入朝(歩騎3000を率い長安入り)を果たし代宗に厚遇された。京師滞留を願い出て許され、弟滔に幽州節度留後を委ねた。
- 11年(776年)同平章事加授、奉天行営出鎮。12年(777年)検校司空、李抱玉に代わり隴右節度使。徳宗即位後、太子太師・鳳翔尹加授、実封300戸。建中元年(780年)涇州将劉文喜の乱鎮圧に功あり中書令加授。2年(781年)太尉加授。弟朱滔の叛意を伝える帛書が発覚するも徳宗は不問とした。3年(782年)4月、張鎰に鳳翔隴右節度留後を交代させ泚は京師に留め置かれ実封1000戸を加えた。
涇原の変と偽帝即位
- 建中4年(783年)10月、涇原の兵が反乱し徳宗は奉天へ避難。叛卒らは失権中の泚を「幽閉されている太尉」として擁立、姚令言が百余騎で泚を迎え入れ含元殿・白華殿に入居させた。朝官の説得を拒み、源休・李忠臣・張光晟らの逆謀に乗り、鳳翔涇原の潰兵3000も合流して野心を固めた。
- 源休を京兆尹・判度支、李忠臣を皇城使とした。段秀実は劉海賓と共に泚誅殺を図るが失敗、笏で泚を殴打し「反虜万段」と叫ぶも李忠臣に阻まれ秀実・海賓は殺害された。
- 建中4年10月8日、源休・姚令言・李忠臣・張光晟ら8人に奉じられ白華殿から宣政殿に入り、大秦皇帝を僭称、応天元年と改元。偽詔(彭偃の起草)で正統性を主張、姚令言(侍中)・李忠臣(司空兼侍中)・源休(中書侍郎平章事判度支)ら多数を偽署、兄の子遂を太子、弟滔を冀王(後に皇太弟)とした。
奉天包囲戦と敗走
- 10月10日、泚は自ら奉天に侵攻したが渾瑊・韓遊瑰に大敗(死者数万)。攻城具を大増強し包囲を続けたが、11月3日の漠谷での戦いで一時優勢に立つも、僧法堅の雲梯を用いた総攻撃を渾瑊が火計で撃退し灰燼に帰させた。李懐光の援軍到着で泚軍は壊滅、包囲は解かれた。
- 11月30日夜、京城に逃げ帰り、「奉天陥落」の偽情報を流すも民心は離れ、私邸を「潜龍宮」と称し財宝を移すも民衆に略奪される有様であった。
- 興元元年(784年)正月1日、国号を「漢」・天皇元年と改元。李懐光の叛乱に呼応し通謀するも、懐光が朝廷に背き遷幸を強要した後に泚は臣礼を求める偽詔を送るなど利用しようとしたが、懐光は結局河中へ逃れた。
- 3月以降、李晟・駱元光・尚可孤らが各地で泚軍を撃破(4月武功、5月藍田で仇敬忠を斬首)。5月28日、王師は京師を回復。
- 泚は姚令言・張庭芝・源休・李子平・朱遂ら数千と西走したが次第に潰散、涇州では田希鑑に旌節を焼かれ拒絶され、梁庭芬の説得工作も失敗。彭原県西城屯で朱惟孝らに射られ落馬・墜穽し、韓旻ら配下に斬られ、その首は献上された(享年43)。姚令言は涇州へ、源休・李子平は鳳翔で捕殺、宋帰朝は李懐光に降ったのち興元で斬られ、朱遂のみ行方不明(野人に殺されたとも党項へ逃れたとも伝わる)。
- 泚に重用された宦官朱重曜は星占いを口実に毒殺され王礼で葬られたが、京師平定後に屍を暴かれ斬られた。姚令言には別伝がある。