舊唐書卷二百上 列傳第一百五十上 史思明

史思明(?-761年)は営州寧夷州の突厥雑種胡人。安禄山と同郷で共に頭角を現し、安史の乱の初期は禄山配下として河北で転戦、一時唐に帰順しながら安慶緒殺害後に大号を僭称して乱を継続、最終的に子の朝義に謀殺された。乱は朝義の代の宝応二年(763年)に終結した。

年表(8件)

史思明

  • 史思明、本名窣干、営州寧夷州の突厥雑種胡人。痩身で髭少なく肩がいかり背が曲がり、目が窪み鼻が曲がった容貌、性急な気質。祿山と同郷で俱に驍勇で知られた(生年は祿山の1日前)。烏知義の斥候として実績を挙げ、6蕃語に通じ互市郎として祿山と共に働いた。張守珪の下で折衝、天宝初年に将軍・平盧軍事に昇進、玄宗に接見され「40歳」と答えると「貴きは後にあり、努めよ」と激励された。北平太守。
  • 天宝11載(752年)平盧節度都知兵馬使。14載(755年)祿山反乱時に饒陽等の諸郡を平定。15載(756年)正月、顔杲卿を常山で破り、饒陽を包囲するも29日陥とせず。李光弼の常山奪還後も攻防が続き、賈循の後任として范陽留後、郭子儀の常山救援を経て博陵に退いたが、子儀・光弼の追撃で沙河・嘉山で大敗し博陵に籠城(潼関失陥で光弼が撤退したことで危機を脱した)。
  • 平盧の精鋭を擁し常山・趙郡を奪還、河間で顔真卿の救援軍を撃退し和琳を捕虜、李奐・李暐(景城で敗死)を破り、康没野波に平原を攻めさせた。饒陽陥落(李系焼身)、河北はほぼ制圧された。尹子奇の江淮進出は回紇の范陽襲来により中断。至徳2載(757年)正月、蔡希德と合流し太原の李光弼を包囲するも地道戦(「地蔵菩薩」の逸話)で撃退され、祿山死去を機に范陽へ撤退。両京の財宝を絶えず范陽へ運ばせ、慶緒の命令に従わなくなった。
  • 慶緒が鄴城に逃げ込んだ際の残兵3万を撃破のうえ降し、慶緒が阿史那承慶・安守忠を派遣し思明を陥れようとした際、判官耿仁智の諫言(「孝感皇帝(粛宗)に帰順すべし」)を容れ、承慶らを謀略で拘束・斬殺し、8万の兵と共に唐に帰順。粛宗は大いに喜び帰義王・范陽長史・御史大夫・河北節度使に封じ、朝義以下は列卿、高秀岩は雲中太守とした。
  • 乾元元年(758年)4月、粛宗は烏承恩を副使として思明暗殺を謀らせたが露見(承恩の子への密告、寝台下の伏兵、朝廷発給の鉄券・李光弼の密書の発覚)、思明は承恩父子を撲殺し、朝廷は「李光弼と無関係、承恩の単独犯行」と弁明した。
  • 三司の議罪への不満、諸将の勧めにより思明は李光弼誅殺を求める上表を準備するが、耿仁智・張不矜が内容を改竄したことが露見し両名は処刑された(仁智は「忠節を貫く」と大呼して撲殺された)。
  • 10月、郭子儀の9節度が鄴城を包囲、慶緒は思明に救援を求めるも動かず。12月、蕭華の魏州帰順を崔光遠が接収しようとしたが思明が奪還し3万人を殺害(乾元2年正月1日)。魏州で「大聖燕王」を僭称、周贄を行軍司馬に。3月、鄴城救援に向かい官軍を退けると慶緒を殺しその軍を併合、4月大号を僭称し周贄を相、范陽を燕京とした。9月汴州を陥し許叔冀が合流、10月洛陽も陥し李光弼と対峙、暴虐を極めた。
  • 上元2年(761年)、思明は「洛陽の将士は幽・朔の出身で帰郷を望んでいる」と偽情報を流し、魚朝恩がこれを信じ光弼・僕固懐恩・衛伯玉らに出撃を促した。榆林での伏兵戦で唐軍は大敗、光弼・懐恩は河陽を放棄し聞喜へ退き、河陽・懐州は陥落した。
  • 思明は陝州攻撃で姜子阪の戦いに敗れ永寧へ退き三角城を築城。息子朝義の築城を叱責し辱めたことから、朝義配下の駱悦らが謀反を決意(許叔冀の子季常らも加担)。思明の悪夢(鹿が水に渡り死ぬ夢=「祿(鹿)」「命(水)」が尽きる暗示との解釈)の逸話の後、駱悦らが厠にいた思明を襲撃、逃走中に矢を受け落馬、命乞いをしつつ朝義を呼んだが柳泉駅で絞殺された。朝義はこれを機に偽位についた。

朝義の顛末

  • 朝義、思明の庶子。寛厚な人柄で人望があった。范陽の偽太子朝英らを殺害させたが、留守張通儒との交戦で数千人が死んだ末に鎮圧。洛陽周辺数百里は人が人を食う惨状となり、祿山旧将たちの割拠で朝義の号令は届かなくなった。
  • 宝応元年(762年)10月、雍王を元帥とする河東・朔方・回紇連合軍が邙山で朝義軍を大破(斬首1万6千、捕虜4万6千余)、朝義は汴州(張献誠に拒まれる)を経て幽州へ逃走。
  • 宝応2年(763年)正月、偽范陽節度李懐仙が朝義を莫州で捕らえ降り首級を闕下に送った。恒州刺史張忠志(成徳軍節度)ら旧偽官はそのまま礼部尚書等に任じられ旧職を保持した(趙州盧淑、定州程元勝、徐州劉如伶、相州薛嵩、幽州李懐仙、鄭州田承嗣ら)。
  • 思明が乾元2年に僭号してから朝義滅亡の宝応元年まで、凡そ4年であった。