泥婆羅国
- 吐蕃の西にあり、髪を眉に揃え耳に竹筒や牛角を通す風習がある。手食で匙箸を用いず、銅銭は表に人、裏に馬牛を鋳る。王の那陵提婆は真珠・玻璃・車渠・珊瑚・琥珀を身に飾り、獅子床に座した。宮中には七層の楼があり銅瓦・欄干は珠玉で飾られ、龍口から水を吹き出す仕掛けがあった。那陵提婆は叔父に父を廃されたのち吐蕃の助けで復位し、以後吐蕃に羈属した。
- 貞觀中、衛尉丞李義表が天竺への途上この国を経て阿耆婆沴池(常に沸き立つ池)を那陵提婆と共に見た。のち王玄策が天竺に掠われた際は泥婆羅も吐蕃とともに援兵を出した。永徽二年、王屍利那連陀羅が朝貢。
党項羌
- 古の析支の地にあり漢の西羌の別種。魏晋以後衰えたが周が宕昌・鄧至を滅ぼして以降強盛化した。東は松州、西は葉護、南は舂桑・迷桑等羌、北は吐谷渾に接する三千里の地に割拠。姓ごとに部落を分け、細封氏・費聴氏・往利氏・頗超氏・野辞氏・房当氏・米擒氏・拓拔氏の八氏のうち拓拔氏が最強。棟宇に住み牦牛毛の屋根を毎年葺き替える。武を尚び復讐を重んじ、庶母・伯叔母・嫂を娶る風習があるが同姓婚は避けた。火葬を行い、文字を持たず草木で歳時を記した。
- 貞觀三年、南会州都督鄭元璹の招諭で酋長細封歩頼が内附、軌州が置かれ歩頼が刺史となった。他姓も相次いで帰属し崌・奉・巖・遠四州が置かれた。
- 酋長拓拔赤辞は当初吐谷渾に臣属していたが、李靖の吐谷渾討伐時に廓州刺史久且洛生に破られ、のち帰化して西戎州都督・李姓を賜った。吐蕃の強盛化に伴い部落は慶州へ内徙し静辺等州が置かれた。黒党項・雪山党項・白狗・舂桑・白蘭諸羌は龍朔以降、吐蕃に破られ臣属した。
- 天授三年、西北辺の党項二十万口が内附し朝・呉・浮・帰等十州が置かれた。上元元年、涇・隴州界の党項十余万が崔光遠に降った。寶応元年、多くの部落州印を求めた。貞元三年、商人が党項と牛馬器械を取引することを初めて禁じた。貞元十五年、六州党項が石州から河西へ移動、永安城鎮将阿史那思昧の苛斂が原因とされる。元和九年、宥州が再置され党項保護にあたった。会昌初、崔君会・李鄠・鄭賀の三使が地域を分担して安撫した。
高昌
- 漢の車師前王の庭、後漢の戊己校尉の故地。国に二十一城あり王都は高昌、交河城は前王庭、田地城は校尉城。谷麦は二毛作、葡萄酒・白畳布を産する。王麹伯雅は後魏高昌王嘉の六世孫。隋煬帝時に入朝し弁国公に封ぜられ華容公主を娶った。
- 武徳二年、伯雅死し子の文泰が継いだ。七年、拂菻犬(中国最初の拂菻犬)を献じた。太宗嗣位後も朝貢は続いたが、文泰は西域諸国の唐への道を塞ぎ、伊吾・焉耆を攻めるなど反覆した。太宗の詰問にも従わず、貞觀十三年には唐使への非礼な言辞(「鷹は天を飛び雉は蒿に竄る」等)が伝えられた。薛延陀の協力を得て太宗は侯君集を交河道大総管に任じ討伐、文泰は王師の接近を知り病死した。
- 子の智盛が継ぐも、君集は田地城を落とし高昌城を包囲、智盛は降伏した。戸八千・口三万七千七百・馬四千三百匹、三郡五県二十二城を得た。魏徴は州県化に反対したが太宗は聞かず、その地に西州・安西都護府を置いた。麹氏は智盛まで九世百三十四年で滅んだ。智盛は左武衛将軍・金城郡公、弟智湛は右武衛中郎将・天山県公に封ぜられ、子孫は代々唐に仕えた。
吐谷渾
- 徒河の清山に発し晋の乱で隴を越え甘松の南・洮水の西に拠った遊牧の国。文字を頗る解し、婚姻は父の庶母・兄の嫂を娶る風習があった。青海には冬に牝馬を放ち「龍種」を得ると信じられ、波斯馬から生まれた驄駒は「青海驄」と称された。
- 隋煬帝時、王伏允は敗走し仙頭王が降った。武徳期、高祖は伏允と通和し李軌討伐に協力させた。太宗即位後、伏允は鄯州を掠め、太宗の招請にも応じず、子尊王の婚姻も不履行に終わった。
- 貞觀九年、李靖を西海道行軍大総管、侯君集・道宗・李大亮・李道彦・高甑生ら諸将を発して討伐。赤海・河源・大非川で連戦連勝し、伏允の子順が国相天柱王を斬って降った。伏允は自縊し、順が可汗(趜胡呂烏甘豆可汗)として冊立された(詔文の要旨を含む)。順はまもなく臣下に殺され、子の諾曷鉢が嗣いだ。
- 貞觀十四年、太宗は弘化公主を諾曷鉢に嫁がせた。十五年、丞相王の謀反未遂を鄯州刺史杜鳳挙が鎮圧。高宗嗣位後、吐蕃との抗争が続き諾曷鉢は薛仁貴の敗戦もあって国を失い、内属して安楽州刺史となった。
- 垂拱四年以降、忠・宣趙・曦皓・兆と代々嗣いだが吐蕃に安楽州を奪われ部衆は朔方・河東に東遷(俗に「退渾」)。貞元十四年、慕容復が青海国王・烏地也拔勒豆可汗に封ぜられたが間もなく卒し封襲は絶えた。晋永嘉末の建国から龍朔三年の吐蕃による滅亡まで凡そ三百五十年続いた。
焉耆国
- 高昌の東、亀茲の西にある漢代故地。王姓は龍氏、名は突騎支。西突厥に役属した。貞觀六年、大磧路の開通を求め許可された。高昌の妨害や西突厥の内紛に翻弄され、十四年には侯君集の高昌討伐に呼応し声援した。
- 貞觀十八年、安西都護郭孝恪が焉耆を攻め王突騎支を虜とした。その後西突厥の介入で内紛(栗婆準・薛婆阿那支をめぐる政変)が続いたが、太宗は「我が兵が得た焉耆に汝が勝手に統摂するな」と西突厥を退け、最終的に先那準を王に立てて職貢を修めさせた。
亀茲国
- 漢の西域旧地。王姓は白氏。仏法を重んじ良馬・葡萄酒を産する。高祖即位時、王蘇伐勃駃が入朝。貞觀四年以降も朝貢が続いたが西突厥に臣属し、伐畳の弟訶黎布失畢の代に籓臣礼を失った。
- 貞觀二十年、阿史那社爾・郭孝恪・楊弘礼らが十余万で亀茲を討伐、多褐城・撥換城で王を破り訶黎布失畢・大将羯猟顛らを擒えた。社爾の凱旋後、郭孝恪は那利の襲撃で戦死した。訶黎布失畢はのち左武翊衛中郎将に任じられ、旧の如く亀茲王に還された。
- 太宗は亀茲に安西都護府を置き於闐・疏勒・砕葉と併せ「四鎮」としたが、高宗はこれを一時放棄。吐蕃の侵攻で四鎮は再三失陥し、則天の長寿元年、王孝傑・阿史那忠節が回復して以降、田揚名・郭元振・張孝暠・杜暹らが安西都護として治めた。
疏勒国
- 漢代故地、葱嶺を帯びる。王姓は裴氏。祅神を事とし胡文字を持つ。貞觀九年以降朝貢、開元十六年、玄宗が王裴安定を疏勒王に冊立した。
于闐国
- 亀茲と接し美玉を産する。祅神・仏教を尊ぶ。王姓は尉遅氏、名は屈密。貞觀六年、玉帯を献上。阿史那社爾の亀茲討伐に際し薛萬備が軽騎で王伏闍信を入朝させた功があった。
- 高宗嗣位後、王と子葉護玷が官職を受けた。垂拱三年、天授三年、開元十六年にも冊立・朝貢が続き、乾元三年には尉遅勝の弟曜が四鎮節度副使を兼ねた(尉遅勝は至德初に唐に留まり宿衛を務めた)。
天竺国
- 漢の身毒国。中・東・南・西・北の五天竺に分かれ、中天竺は都城周囲七十余里。金剛石や旃檀・鬱金の香を産し、齒貝を貨幣とした。焚屍・水葬・野葬などの葬法があり、悉曇章という梵天の書法を学んだ。
- 武徳中、中天竺で尸羅逸多が四天竺を統一。貞觀十五年、摩伽陀王を自称し朝貢、太宗は李義表を報使として派した。貞觀十年、玄奘が梵本経論六百余部を将来。王玄策の使行中、尸羅逸多の死で簒立した阿羅那順が唐使を襲ったため、玄策は吐蕃・泥婆羅の兵を借りて中天竺を大破、阿羅那順を虜として長安に凱旋した(貞觀二十二年)。太宗は玄策を朝散大夫に任じたが、長生の術を称した那羅邇娑婆寐の薬は効なく、後に本国へ帰された。
- 天授二年以降も東西南北中の各天竺から朝貢が続き、開元八年には南天竺王尸利那羅僧伽が大食・吐蕃討伐への協力を申し出「懐徳軍」と命名された。
罽賓国
- 蔥嶺の南、大月氏に役属していた。象に乗る風習があり仏法を篤く信じた。貞觀十一年以降朝貢。顕慶三年、「王始祖馨孽より曷擷支まで父子相伝十二代」と伝えられ、修鮮都督府が置かれた。開元七年、葛羅達支特勒に冊立、天寶四年には勃匐準が罽賓・烏萇両国王を襲封した。
勃律国
- 罽賓・吐蕃の間にあり開元中頻繁に朝貢。開元八年、王蘇麟陀逸之が勃律国王に冊立されたが、二十二年に吐蕃に破られた。
康国
- 漢の康居の国、王姓は温氏で月氏人。突厥に破られ蔥嶺に依り、支族はみな「昭武」を姓とした。商賈を善くし胡文字を用いる。隋煬帝時、王屈術支は西突厥に臣属。貞觀九年、獅子を献じ虞世南が賦を作った。万歳通天年、篤婆缽提が康国王に冊立され、以後泥涅師師・突昏・烏勒・咄曷と継承、天宝三年に咄曷は欽化王に封ぜられた。
波斯国
- 東は吐火羅・康国、西北は突厥可薩部、西は拂菻に接す。王位継承は密書による指名制。獅子床に座し瓔珞を飾る。火祅教を奉じ、刑罰は断手・刖足・髡鉗など厳しい。珊瑚・琥珀・車渠・瑪瑙・玻璃・胡椒等の産物を持つ。
- 隋大業末、王庫薩和が西突厥に殺され、子施利・尹恒支・伊嗣候と継承が乱れた。伊嗣候の子卑路斯は大食の侵攻を避けて唐に頼り、龍朔元年、疾陵城に波斯都督府が置かれ卑路斯が都督となった。儀鳳三年、裴行儉の護送も及ばず卑路斯は入国できず、大食に侵されつつ吐火羅に寓居、景龍二年に再入朝し左威衛将軍となったがまもなく病没、国は滅び部衆のみが残った。開元十年〜天寶六載の間十度朝貢、乾元元年には大食と共に広州を掠めた。
拂菻国
- 大秦とも呼ばれる西海の国。十二人の貴臣が国政を共治し、民の訴えを袋に入れて王に届ける制度があった。王位は賢者を選んで立てる。城には金の秤や機巧仕掛けの噴水があり、盛夏には水を屋上に引いて涼を取る技術を持つ。夜光璧・明月珠・珊瑚・琥珀等の珍宝を産する。
- 貞觀十七年、王波多力が赤玻璃・緑金精を献じた。大食の強盛化により歳ごとに金帛を貢し臣属した。乾封二年・大足元年・開元七年にも朝貢が続いた。
大食国
- もと波斯の西にあった。隋大業中、波斯胡人が獅子の啓示で穴中の兵器と黒石白文を得たとの伝説から興り、亡命者を糾合して波斯西境を割拠、自立して王となった。
- 永徽二年、初めて朝貢。王姓は大食氏、名は噉密莫末膩。男は色黒く鬚多く婆羅門に似る。龍朔初、波斯・拂菻を破り、南は婆羅門を侵し勝兵四十余万に及んだ。開元初の朝貢では拝礼の作法をめぐり中書令張説が「殊俗ゆえ咎めるべきでない」と奏した逸話がある。
- 別伝によれば、隋開皇中に孤列種の奚深・末換の両姓があり、奚深の摩訶末が三千里を征伐した後、末換が兄伊疾を殺して自立したが暴政のため呼羅珊木粗人・波悉林が「黒衣」を掲げて末換を討ち、奚深種の阿蒲羅拔を立てた(以後「黒衣大食」、それ以前は「白衣大食」)。至德初、阿蒲恭拂は元帥として両京回復に唐軍を援けた。以後、迷地・牟棲・訶論と継承、貞元中は吐蕃の勁敵として西方で対峙し唐の辺患は少なかった。貞元十四年、黒衣大食の使者含嵯・焉雞・沙北が中郎将に任じられ帰国した。
史論
- 史臣は言う。西方諸国は山川を跨ぎ張騫の奉使・介子の立功以来、中国と通交する国は多かった。唐の版図は安西の果てまで及び、弱者には徳をもって懐柔し強者には力で制した。開元以前は貢輸が絶えなかったが天寶の乱後は辺境が多難となり朝貢も稀となった。古の哲王が「近き者は悦び遠き者は来る」と言った通り、華夏の安寧をまず図るべきだと結ぶ。
賛
- 大蒙(西方)の国々は時とともに盛衰し、世につれ通塞する。戎心を懐かぬよう我が徳を怠るなかれ、貞觀・開元の盛時には槁街(外国使節の居留地)が賑わったと詠う。