舊唐書卷一百九十九 郭正一・元萬頃・喬知之・劉允濟・富嘉謨・員半千・劉憲・沈佺期・陳子昂・宋之問・閻朝隱・賈曾・許景先・賀知章・席豫・齊浣・王浣・李邕・孫逖

郭正一

  • 郭正一は定州彭城の人。貞觀中、進士に及第。中書舎人・弘文館学士に累遷、永隆二年、秘書少監・検校中書侍郎として魏玄同・郭待舉と共に同中書門下平章事となった。「平章事」の名は正一らに始まる。永淳二年、正式に中書侍郎に任じられた。中書省に長く在り旧事に明るく詞学もあり制敕の多くが正一の手になるもので当時「称職」と評された。則天臨朝後、国子祭酒に転じ知政事を罷め、晉州刺史・麟臺監・検校陜州刺史を歴任。永昌元年、酷吏に陥れられ嶺南に流されて死んだ。家族は籍没され文集も多くが失われた。
  • 先立って儀鳳中、吐蕃入寇の際、工部尚書劉審禮の十八万の軍が青海で吐蕃将倫欽陵に大敗し審禮が戦死した。高宗が禦戎の策を問うと、正一は「近討では兵威を損なうのみ、深入りしても敵の巣窟を突けぬ、兵募を減らし辺境の守りを固め烽候を明らかにして侵擾を防ぎ、数年国力を養った上で一挙に滅ぼすべき」と答え、給事中劉齊賢・皇甫文亮らも堅守策を可とした。正一の才略はおおむねこの類であった。

元萬頃

  • 元萬頃は洛陽の人、後魏景穆皇帝の裔。祖父の白澤は武德中、総管。文に巧みで通事舍人を初任とし、乾封中、英國公李勣の高麗征討に従い遼東道総管記室となった。別帥馮本が大軍で裨将郭待封を援ける船が破損し期を失した際、待封が李勣への報告書に離合詩を用いようとしたのを、萬頃は李勣の怒り(「軍機急務に詩とは何事か、斬るべし」)を解いた。
  • 李勣が萬頃に高麗を檄する文を作らせた際、「鴨綠の険を守ることを知らぬ」との譏りを含んだ文言を莫離支(高麗の宰相)が読み「謹んで承った」として鴨綠に移り固守してしまい官軍が入れなくなり、萬頃はこれに連座し嶺外に流された。のち赦免され著作郎を拝した。
  • 天后が高宗に文詞の士を禁中に召し撰修させることを勧めた際、萬頃は左史范履冰・苗神客、右史周思茂・胡楚賓と共に選ばれ、《列女傳》《臣軌》《百僚新誡》《樂書》など前後千余卷を撰した。朝廷の疑議や百司の表疏も密かに萬頃らに参決させ宰相の権を分けたため、時人は彼らを「北門学士」と呼んだ。
  • 萬頃は文才に敏速だが疎放で細事に拘らず儒者の風はなかった。則天臨朝後、鳳閣舍人、まもなく鳳閣侍郎に抜擢された。もとより徐敬業兄弟と親しく、永昌元年、酷吏に陥れられ嶺南に流されて死んだ。当時、神客・楚賓は既に没しており、履冰・思茂も相次いで酷吏に殺された。

附 范履冰

  • 范履冰は懷州河內の人。周王府戸曹から禁中に召され二十余年務めた。垂拱中、鸞臺・天官二侍郎を歴任、春官尚書・同鳳閣鸞臺平章事兼修國史に遷った。載初元年、逆謀者を挙用した罪で殺された。

附 苗神客

  • 苗神客は滄州東光の人。著作郎に至った。

附 周思茂

  • 周思茂は貝州漳南の人。弟の思鈞と共に早くから知られた。右史から太子舍人に転じ、范履冰と共に禁中で最も親遇され政事の損益にも参与した。麟臺少監・崇文館学士に累遷、垂拱四年、下獄死した。

附 胡楚賓

  • 胡楚賓は宣州秋浦の人。文に巧みで常に半ば酔ってから筆を執った。高宗は文を作らせるたび金銀の杯に酒を盛って飲ませその杯を賜った。楚賓は終日酣宴し家に蓄えを残さず、費え尽きればまた待詔に入り賜れば出るという生活であったが、慎密な性で禁中の事を口にせず、酔っても他事で受け答えするのみであった。殷王文學から右史・崇賢直学士を拝し卒した。

喬知之

  • 喬知之は同州馮翊の人。父の師望は高祖の女廬陵公主を娶り駙馬都尉・同州刺史に至った。知之は弟の侃・備と共に文詞で知られ、とりわけ俊才と称され作った詩篇は世に諷誦された。則天時代、右補闕から左司郎中に累遷。侍婢の窈娘は美しく歌舞に長じていたが武承嗣に奪われ、知之は怨惜のあまり《綠珠篇》を作って心情を寄せ密かに窈娘に送ると、窈娘は感憤して自殺した。承嗣は激怒し酷吏に讒訴させ知之を誅殺した。
  • 弟の侃は開元初、兗州都督。弟の備は《三教珠英》の撰に与り長安中、襄陽令で卒した。同時代の汝州人劉希夷も従軍・閨情の詩に優れ哀苦な詞調で重んじられたが素行が修まらず奸人に殺された。

劉允濟

  • 劉允濟は洛州鞏の人、その先は沛国より移った、南齊彭城郡丞劉愬の六代孫。幼くして父を失い母によく仕えた。博学で文に巧み、絳州の王勃と早くから名を並べ特に親交があった。弱冠で本州から進士に挙げられ著作佐郎に累任。魯哀公以後十二代から戦国までの遺事を採録した《魯後春秋》二十卷を撰し表上、左史兼直弘文館に遷った。垂拱四年、明堂完成の折に《明堂賦》を諷諫のため奏上し則天に称賛され手制の褒美を得て著作郎を拝した。
  • 天授中、来俊臣に讒構され死罪に問われたが母の老齢を理由に余生を許され下獄留置となり、赦免後、大庾尉に貶められた。長安中、著作佐郎兼修國史に累遷しまもなく鳳閣舍人に抜擢された。中興初、張易之との親交に連座し青州長史に左遷されたが吏として清廉で河南道巡察使路敬潛に称薦された。母の喪に服し喪明け後まもなく卒した。

富嘉謨

  • 富嘉謨は雍州武功の人。進士に及第。長安中、晉陽尉に累転し新安の吳少微と親交し同官であった。従来文士の碑頌は徐陵・庾信を宗としていたが気調が劣化していたところ、嘉謨と少微は経典を本とした文章を作り時人に敬慕され文体が一変し「富吳体」と称された。嘉謨の《雙龍泉頌》《千蠋谷頌》、少微の《崇福寺鐘銘》は最も高雅とされ作者に推重された。并州長史張仁亶は殊礼をもって遇し必ず同席させた。嘉謨はのち壽安尉となり《三教珠英》の撰に与り、中興初、左臺監察御史で卒した。文集五卷。
  • 少微も進士に及第し晉陽尉に至った。中興初、吏部の詮考で侍郎韋嗣立に称薦され右臺監察御史を拝したが病臥中に嘉謨の死を聞き哭して詩を賦し、まもなく卒した。文集五卷。嘉謨・少微が晉陽にいた頃、魏郡の谷倚が太原主簿として同じく文詞で名を挙げ「北京三傑」と称されたが、倚はのち流寓の地で客死し文章は散逸した。少微の子の鞏は開元中、中書舍人に至った。

員半千

  • 員半千、本名は餘慶、晉州臨汾の人。若くして齊州の何彥先と共に学士王義方に師事し、義方に「五百年に一人の賢者、足下がそれに当たる」と評され半千と改名した。義方の死後、彥先と共に喪服を務め終えてから去った。
  • 上元初、八科挙に応じ武陟尉を授けられた。連年の旱魃飢饉の折、県令殷子良に倉を開いて貧民を賑わすよう勧めたが従われず、子良が州に出向いた隙に自ら発倉し民を救った。懷州刺史郭齊宗は驚いて糾問しようとしたが、河北道存撫使の黃門侍郎薛元超が「百姓を救えない公が、恵みを一尉に帰させて恥ずかしくないのか」と齊宗を諭し放免させた。まもなく嶽牧挙にも応じた。
  • 高宗が武成殿で挙人に「兵書の天陣・地陣・人陣とは何を指すか」と問うた際、半千は列を越えて進み出て「星宿・山川・偏伍を挙げる説もあるが、私見では、義をもって兵を出すのが天陣、足食耕戦で地の利を得るのが地陣、父子兄弟のように和した三軍を作るのが人陣。この三つを欠けば戦えぬ」と答え、高宗に大いに嘆賞され対策で上第に選ばれた。
  • 垂拱中、左衛胄曹に累補し宣慰吐蕃使を兼ねた。辞去の際、則天は「久しく名を聞き古人かと思っていたが朝列にいたとは、境外の小事に卿を煩わせるまでもない、留めて待制させよ」と語り、閣内供奉を命じた。嗣聖元年、左衛長史として鳳閣舍人王處知・天官侍郎石抱忠と共に弘文館直学士となり著作佐郎路敬淳と分番で顯福門待制を務めた。《明堂新禮》三卷を撰し献じ、則天の中嶽封禅では《封禅四壇碑》十二首を進め称賛され、前後で絹千余匹を賜った。
  • 長安中、五たび昇進して正諫大夫兼右控鶴內供奉に至ったが、控鶴の職は古例になく任じられる者も軽薄な者が多いとして罷止を上疏し旨に逆らい水部郎中に左遷、《三教珠英》の撰に与った。中宗時代、濠州刺史。睿宗即位後、太子右諭德兼崇文館学士に召され銀青光祿大夫を加えられ平原郡公に累封された。開元二年に卒した。文集は多くが失われた。同時代の学士に丘悅がいた。

附 丘悅

  • 丘悅は河南陸渾の人。学業があり、景龍中、相王府掾として文學韋利器・典簽裴耀卿と共に王府直学士となった。睿宗が藩にあった頃深く重んじられ岐王傅に至った。開元初に卒し《三國典略》三十卷を撰し世に行われた。

劉憲

  • 劉憲は宋州寧陵の人。父の思立は高宗時代、侍御史。河南・河北の旱饉に際し御史中丞崔謐らを分道して賑給する詔が出た際、思立は「農繁期に使者を迎える負担が却って民を煩わせる、州県に賑給を委ね秋の閑期に出使すべき」と諫め、これが容れられ謐らの出使は中止された。のち考功員外郎に遷り、明經に帖経、進士に雑文を試すことを初めて奏請したのは思立に始まる。まもなく在官のまま卒した。
  • 憲は弱冠で進士に及第し冬官員外郎に累遷。天授中、来俊臣の推按を命じられた際、その酷暴を憎み繩そうとしてかえって讒構され濆水令に貶められ、司仆丞に転じた。俊臣誅殺後は給事中に抜擢されまもなく鳳閣舍人に転じた。
  • 神龍初、張易之に引き立てられた縁で吏部侍郎から渝州刺史に出されたが、まもなく太仆少卿兼修國史・修文館学士として召還された。景雲初、太子詹事に至った。
  • 玄宗が東宮で経籍に留意していた際、憲は「学問は上ばかりでなく身を安んじ家国を保つためにも重要、殿下には尋章摘句より大意を知る学びを勧めたい、侍讀の褚無量を時に召して問うのがよい」と啓し玄宗に嘉納された。翌年に卒し兗州都督を贈られた。文集三十卷。
  • かつて則天が吏部に糊名(無記名)で判文を試させた際、憲は王適・司馬皪・梁載言と相次いで第二等に入った。

附 王適

  • 王適は幽州の人。雍州司功に至った。

附 司馬皪

  • 司馬皪は洛州溫の人。神龍中、黃門侍郎で卒した。

附 梁載言

  • 梁載言は博州聊城の人。鳳閣舍人として専ら制誥を掌り《具員故事》十卷・《十道志》十六卷を撰しいずれも世に伝わった。中宗時代、懷州刺史。

沈佺期

  • 沈佺期は相州內黃の人。進士に及第。長安中、通事舍人に累遷し《三教珠英》の撰に与った。文に巧みでとりわけ七言に長じ宋之問と並称され「沈宋」と呼ばれた。考功員外郎に転じたが贓罪に連座し嶺表に流された。神龍中、起居郎兼修文館直学士を授けられ中書舍人・太子詹事を歴任、開元初に卒した。文集十卷。弟の全交及び子も文詞で知られた。

陳子昂

  • 陳子昂は梓州射洪の人。家は富豪であったが独り苦節して読書し文に巧みであった。《感遇詩》三十首を作ると京兆司功王適が驚嘆し「この人は必ず天下の文宗となる」と評し名を知られた。進士に及第。
  • 高宗崩御の際、霊柩を長安に還すことになったが子昂は上書し、東都は要害で山陵に適するのに対し関中は旱魃で疲弊しており霊柩を西へ運ぶのは不便と論じた。上書では、非常の策には非常の主が必要であり臣下は死を恐れず正論すべきとの前置きに続き、秦漢が長安に都した頃は胡・宛や巴蜀からの物資供給があったが今は燕代が匈奴、巴隴が吐蕃の脅威に晒され関中の民も疲弊し流民が絶えぬこと、山陵造営には大量の労役が必要で疲弊した民をさらに酷使すれば逃散を招くこと、舜が蒼梧に葬られ禹が会稽で没したように聖人は必ずしも故地に葬られぬこと、洛陽は嵩山・邙山・汝海に囲まれた要害であり瀍水・澗水の間は太行の険・宛葉の饒・江淮の利・崤澠の固を備えることを挙げ、東京への埋葬を進言した。平王の東遷や光武帝の洛陽定都の故事も引き、太原・洛口の巨大な備蓄倉を放棄して長駆西行すれば盗賊の乗ずる隙を与えかねないと警告した。
  • 則天はこれを召見し対策を奇として麟臺正字を拝した。則天が雅州から生羌を討ち吐蕃を襲おうとした際にも子昂は上書し、無罪の辺羌を討てば怨みを買い蜀の辺境が乱れること(後漢末の西京喪敗の先例)、吐蕃はこの二十余年薛仁貴・郭待封の十一万、李敬玄・劉審禮の十八万を各々壊滅させるほど強大で今の疲弊した兵でこれに当たれば侮られるだけであること、かつて秦が張儀の計で蜀侯を利で釣り道を開かせ結局蜀を滅ぼした故事、吐蕃が蜀の富を狙いながら険阻に阻まれていたのに自ら道を開けば敵に塩を送ることになること、蜀は国家の宝庫で徒に無辜の民を殺し財を費やす利益なき戦であること、益州長史李崇真がかつて虚偽の吐蕃侵攻警報で軍需を私腹に肥やした前例があり今回も奸臣の企みではないかとの疑い、蜀人は兵に不慣れで山川険阻ゆえ短期決戦できねば逆に蜀が「戎」と化す恐れ(辛有の予言に類する)、近年安北・単于・龜茲・疏勒を放棄し仁を務め殺を務めぬ盛徳を天下に示したばかりであることなど七つの理由を挙げ、出兵の中止を求めた。
  • 右拾遺に転じ度々上疏し文はいずれも典雅であった。同州下邽の徐元慶が父の仇である県尉趙師韞(のち御史)を変名して仇を討った事件では、世論は孝烈として赦免を求めたが、子昂は「国法により死罪に処した上でその孝義を旌表すべき」と建議し、当時の議者もこれを是とした。まもなく麟臺正字に復し、武攸宜の契丹北討軍では管記として軍中の文翰を任された。
  • 子昂の父が郷里で県令段簡に辱められた際、子昂は急ぎ帰郷したが、簡は事に因んで子昂を投獄し、子昂は憂憤のうちに40余歳で卒した。子昂は褊狭で威儀に欠けたが文詞は宏麗で当時重んじられた。文集十卷、友人の黃門侍郎盧藏用が序を書き世に広く行われた。
  • 子昂の死後、益州成都の閭丘均も文章で名を知られ、景龍中、安樂公主の推挙で太常博士を初任としたが公主誅殺に連座し循州司倉に貶められ卒した。文集十卷。

宋之問

  • 宋之問は虢州弘農の人。父の令文は勇力があり書に巧みで文にも長じ、高宗時代、左驍衞郎將兼東臺詳正学士。之問は弱冠で名を知られ五言詩にとりわけ優れ当時並ぶ者がなかった。楊炯と分番で内教を務め、洛州参軍・尚方監丞・左奉宸內供奉を歴任。張易之兄弟にその才を愛され之問も傾倒した。《三教珠英》の撰に与り則天の遊宴に扈従した。則天が洛陽龍門に幸し従官に賦詩させた際、左史東方虬の詩が先に成り錦袍を賜ったが、之問の詩が完成するとより優れているとして虬から錦袍を取り上げ之問に与えた。
  • 易之らの敗死後、瀧州参軍に左遷されたがまもなく逃げ帰り洛陽の張仲之の家に匿われた。仲之が駙馬都尉王同皎らと武三思暗殺を謀った際、之問は甥にこれを密告させ自らの罪を贖った。同皎らが処罰された後、鴻臚主簿に起用されたことで義士に深く譏られた。
  • 景龍中、考功員外郎に転じた。中宗が修文館学士を増置し朝中の文学の士から選んだ際、之問は薛稷・杜審言らと共に真っ先に選ばれ栄とされた。科挙を司って後進を抜擢し多くの知名の士を出した。まもなく越州長史に転じた。
  • 睿宗即位後、張易之・武三思に付いた罪で欽州に流され、先天中、流謫先で死を賜った。二度の流謫の道すがら江嶺の各地で詠んだ詩篇は遠近に広く伝わった。友人の武平一が編纂し十卷にまとめ世に伝わった。
  • 世人は宋家の三絶として、令文の三子――文詞の之問、勇力の之悌、書の之遜――をそれぞれ父の一芸を継いだ者と評した。弟の之悌は開元中、右羽林將軍から益州長史・劍南節度兼采訪使に出、まもなく太原尹に遷った。

閻朝隱

  • 閻朝隱は趙州欒城の人。兄の鏡幾・弟の仙舟と共に若くして知られた。文章は《風》《雅》の体こそないが奇抜な構成に優れ時人に賞された。給事中に累遷し《三教珠英》の撰に与った。張易之らが作ったとされる作品の多くは実際には朝隱と宋之問が代作したものであった。聖歷二年、則天の病の折に少室山への祈祷を命じられると自ら犠牲として身代わりを申し出るほど諂い、快癒すると絹彩百匹・金銀器十事を賜った。麟臺少監に転じたが易之誅殺に連座し嶺外に流され、まもなく召還された。先天中、秘書少監に復したが再び事に連座し通州別駕に貶められそこで卒した。
  • 朝隱が《三教珠英》を修めていた頃、成均祭酒李嶠と張昌宗が修書使として天下の文詞の士を尽く学士に招き、その中に王無競・李適・尹元凱らがいて当時名を知られた。

附 王無競

  • 王無競、字は仲烈。その先は瑯邪の人で官により東萊に移った、宋太尉王弘之の十一代孫。父の侃は棣州司馬。文学があり下筆成章挙に及第、趙州欒城縣尉を初任、秘書省正字・右武衛倉曹・洛陽縣尉を経て監察御史・殿中に遷った。宰相宗楚客・楊再思が朝礼の正班中に私語していたのを「大臣たる者、恒典を慢るべきでない」と諫めたため激怒され太子舍人に転じられた。神龍初、権幸を訶詆した罪で蘇州司馬に出、張易之らとの交わりで再び嶺外に貶められ、広州で54歳で卒した。

附 李適

  • 李適は中書舍人を経て工部侍郎に転じた。天台の道士司馬承禎が召されて京師に至りのち帰る際、適はその高尚な志を序した詩を贈り、朝廷の士がこぞって唱和すること三百余人に及び、これを編纂して《白雲記》と名付け世に広く伝わった。まもなく卒した。

附 尹元凱

  • 尹元凱は瀛州樂壽の人。磁州司倉を初任としたが事に連座し免ぜられ、以後三十年近く山林に隠れ仕官を求めなかった。張說・盧藏用と特に親しく、右補闕に召され并州司馬で卒した。

賈曾

  • 賈曾は河南洛陽の人。父の言忠は乾封中、侍御史。遼東への軍糧輸送の使いを終えて帰った際、高宗に山川地勢と遼東平定の見通しを説き大いに悦ばれた。諸将の優劣を問われると「李勣は先朝以来の重臣、龐同善は闘将ではないが軍律厳整、薛仁貴は勇冠三軍、高侃は倹素で忠果、契苾何力は沈毅で統禦の才あるが猜忌の癖がある、夙夜身を忘れ国を憂うのは李勣に及ぶ者はない」と評し高宗も深く同意した。吏部員外郎に累遷したが事に連座し邵州司馬に左遷され卒した。
  • 曾は若くして名を知られ、景雲中、吏部員外郎。玄宗が東宮で宮僚を厳選する中、太子舍人に任じられた。太子がしばしば女楽を求めさせようとした際、曾は「音楽は徳を崇めるものであり婦人の媟黷は無縁、魯が孔子を用いて覇に近づいた際に斉が女楽を贈って孔子を去らせた例、由余が戎から秦に去った例を引き、婦人の楽は淫俗を招き国を敗る」と諫め、太子は「近頃典籍を尋ね政化に心を留めており女楽は禁断するつもり」と答え曾を中書舍人に抜擢しようとしたが、曾は父の名(言忠の「忠」が中書舎人の職掌に触れる?)を憚り固辞し諫議大夫兼知制誥を拝した。
  • 翌年、南郊の祭祀で皇地祇の位が設けられていないことを奏議し「南郊方丘に皇地祇及び従祀の座を設けるべき」と論じ、睿宗は宰相・礼官に議させた結果その通りとなった。開元初、再び中書舍人を拝したが固辞し、中書は官署名であって父の名と音は同じでも字が違い礼に妨げないとの議を経てようやく就任、蘇晉と共に制誥を掌り「蘇賈」と並称された。のち事に連座し洋州刺史に貶められたが、開元六年、玄宗が旧を念い甄敘し慶州・鄭州などの刺史を歴任、光祿少卿・礼部侍郎に至った。(開元)十五年に卒した。

附 賈至

  • 曾の子の至は天寶末、中書舍人。安祿山の乱で玄宗(上皇)に従い蜀へ幸した。粛宗が霊武で即位すると上皇は至に伝位冊文を書かせ、上皇は「昔先帝が朕に位を譲った際の冊文は汝の父の筆、今朕が儲君に神器を授けるにまた汝が誥を作る、累朝の盛典が父子の手から出るとは」と感嘆し、至は御前で嗚咽した。
  • のち尚書左丞。礼部侍郎楊綰が古制に依り州県の孝廉挙・帖経・策問による選士を求めた際、至は「夏は忠、殷は敬、周は文を尚んだがいずれも人の行いを統べるもの、前代の文による取士は本来行いを見るためであった、近年の科挙は帖字の暗記や声病の技巧を重んじ大義を究めぬため士風が乱れ、安祿山の乱もこの取士の失に遠因がある」と論じ、三代・秦・漢・魏晉隋の興亡を引いて儒学重視の教育制度改革(州郡に太学館を置き博士を厚遇し郷里・流寓いずれの生徒も推挙する)を提言した。宰臣は「今年の挙人は旧制のまま、来年から至の議に従う」ことで決着した。
  • 廣德二年、礼部侍郎に転じ、戦乱で困窮した挙人のため両都(長安・洛陽)で試験を行うことを初めて奏請した。永泰元年、集賢院待制を加え、大歷初、兵部侍郎に改め、五年、京兆尹兼御史大夫に転じ卒した。

許景先

  • 許景先は常州義興の人、のち洛陽に移った。若くして進士に及第し夏陽尉を初任。神龍初、東都聖善寺報慈閣造営に際し《大像閣賦》を献じその美文で左拾遺に抜擢され給事中に累遷した。
  • 開元初、毎年の賜射(弓射の恩賜行事)で節級に応じ多くの物を賜っていたのが府庫を消耗させていたのを、景先は「古の天子は射で諸侯を選び礼楽を飾ったが、今は官員が多く倉が満たず水旱・師旅が続く中で徒に国を耗らす行為、河南河北の水害や辺境の軍事費が嵩む中で射的の恩賞は不急」と奏議し、以後賜射の礼は停止された。
  • まもなく中書舍人に転じ、開元初から中書舍人齊浣・王丘・韓休・張九齡と共に知制誥を掌り文翰で称された。中書令張說は「許舍人の文は峻峰激流の勢はないが豊美で中和の気を得ている、一時の秀才」と評した。(開元)十年夏、伊水・汝水の氾濫で多くの民家が流され溺死者が出た際、景先は侍中源乾曜に「災異には修徳をもって禳うべき、《左傳》の『服を降し次を出づ』の故事もある、大臣として明主を諫めるべき」と説き、乾曜はこれを奏上し戸部尚書陸象先を賑給に遣わした。
  • (開元)十三年、玄宗が刺史の人選を宰臣に厳選させた際、景先が第一に選ばれ吏部侍郎から虢州刺史に出、のち岐州刺史を経て吏部侍郎に復し卒した。

賀知章

  • 賀知章は會稽永興の人、太子洗馬賀德仁の族孫。若くして文詞で知られ進士に及第。国子四門博士、太常博士を歴任、いずれも陸象先の推挙による。開元十年、兵部尚書張說が麗正殿修書使となった際、知章及び秘書員外監徐堅・監察御史趙冬曦を招き《六典》《文纂》などを撰させたが、数年を経ても完成しなかった。のち太常少卿に転じた。
  • (開元)十三年、礼部侍郎に遷り集賢院学士を加え皇太子侍讀も兼ねた。この年、玄宗が東嶽封禅を行った際、静謐を保つため知章に儀注を講定させ、知章は「昊天上帝は君位、五方諸帝は臣位であり陛下は山上で君位を、群臣は山下で臣位を祀ることが礼になる、三献の礼で行い亜終は一処に合わせるべき」と奏し、玄宗は「まさにその通りにしたいと思い卿に問うたのだ」と応じ、三献を山上で、五方帝以下を下壇で祀る勅が下された。
  • 惠文太子(李範?)薨去の際、礼部が選ぶ挽郎の人選に不公平があり門蔭子弟が門前で喧訴した際、知章は梯を登って自ら決を下し人々に嗤われ、これにより工部侍郎兼秘書監同正員に改められた(引き続き集賢院学士)。まもなく太子賓客・銀青光祿大夫兼正授秘書監に遷った。
  • 知章は放曠な性で談笑を好み当時の賢達に慕われた。工部尚書陸象先は知章の族姑の子で親しく「賀兄の言論は倜儻、真の風流の士、一日会わねば吝嗇な心が生じる」と評した。晩年ますます放縦になり自ら「四明狂客」「秘書外監」と号して市中を遊歴し、酔って作る詩文はそのまま巻軸となるほど巧みで、草隷の書も好事家に珍重された。呉郡の張旭も知章と親しく草書に巧み、酔うと大声で走り回り筆を揮って変化無窮の書を書いたため「張顛」と呼ばれた。
  • 天寶三載、病で恍惚となった際、道士となり郷里に帰ることを願い旧宅を観に寄進した。玄宗はこれを許し子の典設郎賀曾を会稽郡司馬に任じて侍養させ、御製の詩を贈り皇太子以下が見送った。帰郷後まもなく86歳で寿を終えた。肅宗は乾元元年十一月、旧師の礼として礼部尚書を追贈する詔を下した。
  • 神龍中、知章は越州の賀朝・萬齊融、揚州の張若虛・邢巨、湖州の包融ら呉越の文詞俊秀と並び上京に名を揚げた。朝と萬齊融は山陰尉止まり、齊融は昆山令、若虛は兗州兵曹、巨は監察御史に終わったが、融だけは張九齡に見出され懷州司戸兼集賢直学士となった。この中で知章が最も貴顕を極めた。同じ神龍中、尉氏の李登之も五言詩に長じたが不遇のまま60余歳で宋州参軍として卒した。

席豫

  • 席豫は襄陽の人、湖州刺史席固の七世孫、河南に移り住んだ。進士に及第。開元中、考功員外郎に至り科挙で人材を得たと称された。中書舍人に累遷し韓休・許景先・徐安貞・孫逖と相次いで知制誥を掌りいずれも能名があった。戸部侍郎兼江南東道巡撫使・鄭州刺史を経て吏部侍郎に召され、玄宗に「以前の考功の職務ぶりゆえこの任を授ける」と語られた。銓選を六年務め令誉を得た。天寶初、尚書左丞に改め検校礼部尚書・襄陽縣子に封ぜられた。玄宗の溫泉宮行幸で朝元閣に登り賦詩した際、群臣の唱和の中で豫の詩が最も工みとされ「詩人の首出、作者の冠冕」との褒美を賜った。
  • 豫と弟の晉はともに詞藻で称された。豫は特に謹厳で子弟への書簡や吏曹の文書にも草書を用いず「他人を敬わぬのは自らを敬わぬこと」と語り、些細なことと言われても「小事すら謹まねば大事はなおさら」と答えた。(天寶)七載、69歳で在職のまま卒した。
  • 病篤い折、子に「死後三日で殮し即日葬るように、長く留めて公私の煩いとするな、家に余財はないから住居を売って葬礼に充てよ」と語り、人々はその達観を称えた。江陵大都督を贈られ謚は文。

附 徐安貞

  • 徐安貞は信安龍丘の人。五言詩にとりわけ優れ、制挙に応じて一年に三度甲科に登り評判となった。開元中、中書舎人・集賢院学士。玄宗の文や手詔の草案を任されることが多く恩顧を受けた。中書侍郎に累遷し天寶初に卒した。

齊浣

  • 齊浣は定州義豐の人。若くして詞学で称され弱冠で制科に及第、蒲州司法参軍を初任とした。景雲二年、中書令姚崇に監察御史として用いられ、風教を先んじる弾劾で称職とされた。開元中、姚崇に再び用いられ給事中、中書舎人に遷り、書詔の駁正・潤色は古義に基づき、侍中宋璟・中書侍郎蘇頲に重んじられた。秘書監馬懷素・右常侍元行沖の四庫群書編纂に編修使として奏用され秘書少監に改められたが丁憂で免ぜられた。
  • (開元)十二年、汴州刺史に出た。汴州は江淮と河洛を結ぶ要衝で人口も多く、前任者の多くが不称職だったが倪若水と浣は清厳な治で民吏に歌われた。中書令張說が左右丞を選ぶ際、懷州刺史王丘を左丞、浣を右丞とした。李元紘・杜暹が宰相となり宋璟を吏部尚書に、蘇晉と浣を吏部侍郎に用い高い評価を得た。
  • 開府王毛仲が寵幸を恃み龍武将軍葛福順と姻戚を結び専横していた際、浣は「福順が兵馬を掌握し毛仲と縁を結ぶのは危険、高力士は謹慎で宦官ゆえ禁中の用に足る」と密奏したが、大理丞麻察が事を漏らし玄宗の怒りを買い高州良德丞に貶められ、麻察も潯州皇化尉に貶められた。数年後、常州刺史に量移された。
  • (開元)二十五年、潤州刺史・江南東道采訪処置使に遷り、瓜步の迂回で船の損失が多かった漕運路を改め伊婁河二十五里を開いて揚子県に直通させ漂損の被害を防ぎ歳の運賃を数十万減らした。伊婁埭を立てて官収の課とし後々まで利便を与えた。のち再び汴州刺史となり、虹縣から臨淮への急流の水運を改善するため新河を開いたが、後にその新河も急流と岩礁で難渋した。
  • 高力士の助力で二道の采訪使を兼ねる中、漕運の利権を利用して財貨を貨し中貴に賂を送ったことが物議を醸し、劉戒之の娘を妾として正室を凌ぎ家政を専らにしたことも李林甫に憎まれ、判官の贓罪に連座して官を廢され帰郷した。
  • 天寶初、員外少詹事として東都に留司、同じく林甫に讒された絳州刺史嚴挺之と親しく交わったが林甫に警戒され、(天寶)五年、平陽太守に用いられそこで卒した。肅宗即位後、林甫に陥れられた者の名誉が回復され浣も褒贈を受けた。

王浣

  • 王浣は并州晉陽の人。若くして豪放不羈で進士に及第後は賭博と酒に明け暮れた。并州長史張嘉貞にその才を認められ厚遇され、感謝して楽詞を作り自ら席上で歌い舞う豪邁さを見せた。張說が并州を鎮した際にも礼遇を受け、說が復び政事を執ると秘書正字から通事舍人に抜擢され駕部員外郎に遷った。厩に名馬を並べ家に妓楽を蓄え、自らを王侯に比すほど尊大で人望を嫉まれた。
  • 說の失脚後、汝州長史に出され仙州別駕に改められた。任地では豪傑を集め狩猟太鼓に興じ、文士祖詠・杜華が常に同席した。ついに道州司馬に貶められそこで卒した。文集十卷。

李邕

  • 李邕は廣陵江都の人。父の善は同郡の曹憲に《文選》を学び、左侍極賀蘭敏之に推挙され崇賢館学士・蘭臺郎となったが敏之の失脚に連座し嶺外に流された。赦免後は汴鄭の間に寓居し《文選》講義を業とし老病のうちに卒した。注した《文選》六十卷は大いに世に行われた。
  • 邕は若くして知られ、長安初、内史李嶠及び監察御史張廷珪に「詞高く行い直し諫諍の官に足る」と推挙され左拾遺を拝した。御史中丞宋璟が張昌宗兄弟の不順な言動の処断を求めた際、則天が渋ると邕は階下から「宋璟の言は社稷に関わる、聖断を望む」と進言し則天は態度を和らげ璟の請を許した。退出後「地位が低いのに旨に沿わねば禍を招く、なぜ軽率な真似を」と問われると邕は「狂わずんば不願、名が彰れぬ、後世どう評されよう」と答えた。
  • 中宗即位後、妖人鄭普思が秘書監とされたことに上書して諫め、孔子の「思無邪」の句や、方術・仙方・仏法・鬼道いずれも歴代の帝王が求めても効なく堯舜のみが人事によって天下を治めたことを挙げ「陛下が復びこの道を行うことのないよう」と述べたが容れられず、張柬之に親しかった縁で南和令、さらに富州司戸に貶められた。
  • 唐隆元年、玄宗の内難平定後、左臺殿中侍御史に召され戸部員外郎に改められたが再び崖州舍城丞に貶められ、開元三年、戸部郎中に抜擢された。黃門侍郎張廷珪と親しく、姜皎が用事の際に廷珪と共に邕を憲官に推そうとしたが事が漏れ、中書令姚崇に邕の険躁を嫉まれて罪を構えられ括州司馬に左遷、のち陳州刺史に召還された。
  • (開元)十三年、玄宗の東封からの帰路、邕は汴州で謁見し詞賦を献じ帝の意にかない自ら宰相に就くと吹聴するほどだったが、中書令張說に嫌われた。まもなく陳州での贓汚事件が発覚し死罪に問われた際、許州人孔璋が上書して「李邕は張易之の権勢や韋后の勢威にも屈せず正論を折った忠烈の士、孤窮を救い私財を蓄えぬ人物、自分の六尺の身をもって邕の死に代わりたい」と身代わりを願い出た。上書の結果、邕は死一等を減じ欽州遵化縣尉に貶められ、孔璋も嶺南に流されて死んだ。
  • 邕はのち嶺南で中官楊思勖の討賊に従い功を立て括州・淄州・滑州の刺史を歴任した。もとより文才で名高く士を養ったため妬まれ幾度も貶斥されたが、後進からは古人のように仰がれ中使の求めに応じ文を作るたびさらに讒言を受けた。
  • 天寶初、汲郡・北海の太守を歴任。豪奢で細行に拘らず財貨を求め狩猟にふけった。(天寶)五載、贓罪が発覚、また左驍衛兵曹柳勣に馬を贈っていた縁で勣が下獄した際、吉溫が勣に邕との交わりを引き出させ、刑部員外郎祁順之・監察御史羅希奭が郡へ馳せて処刑した。時に70余歳。
  • 邕は早くから才名を馳せ碑頌にとりわけ優れ、貶職の身にあっても中朝の士や天下の寺観が金帛を持って文を求めに来た。前後数百首を作り受けた謝礼も巨万に及び、時に「古来文で財を得た者に邕ほどの例はない」と評された。文集七十卷。《張韓公行狀》《洪州放生池碑》《批韋巨源謚議》は特に文士に推重された。のち恩例により秘書監を追贈された。

孫逖

  • 孫逖は潞州涉縣の人。曾祖の仲將は壽張丞、祖父の希莊は韓王府典簽、父の嘉之は天冊年に進士に及第しさらに書判抜萃で蜀州新津主簿を授けられ曲周・襄邑二縣令を経て宋州司馬で致仕、83歳で卒した。
  • 逖は幼くして英俊で文思敏速、15歳で雍州長史崔日用を訪ねた際、日用に軽んじられ《土火爐賦》を作らせられると即座に典雅な文を書き上げ日用を驚かせ忘年の交わりを結び名声を高めた。開元初、哲人奇士挙に応じ山陰尉、秘書正字に遷った。(開元)十年、制挙の文藻宏麗科に登り左拾遺を拝し、張說に才を重んじられその門に日々出入りし左補闕に転じた。黃門侍郎李暠が太原に鎮した際、従事に招かれた。
  • 暠が蒲州刺史李尚隱と伯樂川に遊んだ際、逖がその記を著し文士に称賛された。(開元)二十一年、考功員外郎兼集賢修撰に召され、二年にわたり選んだ貢士から杜鴻漸(後の宰輔)・顏真卿(尚書)を、翌年には李華・蕭穎士・趙驊を上第に抜擢し「この三人は綸誥を掌る器」と評した。
  • (開元)二十四年、中書舍人を拝したが父がなお邑宰の身であることを理由に「地位が過ぎている、父にわずかでも恩をお願いしたい」と上表し、玄宗は嘉して父の嘉之を宋州司馬致仕として遇し、まもなく嘉之は卒した。
  • 父の喪に服し(開元)二十九年、服喪明けに中書舍人に復し河東黜陟使を兼ねた。天寶三載、権判刑部侍郎。五載、風病により散秩を求め太子左庶子に改められた。逖は八年にわたり知制誥を務め、その制敕は世に嘆服された。開元以来、蘇頲・齊浣・蘇晉・賈曾・韓休・許景先及び逖が王言(詔勅の文)の最も優れた作者とされ、逖は特に思考精練で謙退して誇らず人々に称された。病により久しく散職にあったが太子詹事に転じ、上元中に卒した。廣德二年、詔により尚書右僕射を贈られ謚は文。文集三十卷。
  • 子に宿・絳・成、弟に遹・遘・造がいた。弟の遹は左武衛兵曹で終わり、子の宿は河東掌記を経て代宗朝、刑部郎中・中書舍人を歴任、華州刺史に出て卒した。
  • 子の成、字は退思、父の廕で雲陽・長安尉に累任し監察御史から殿中に転じた。隴右副元帥李抱玉の掌書記を経て屯田・司勛の二員外郎に入った。母の喪に服し喪明け後、洛陽令、長安令に転じた。兄の宿が華州刺史のとき火事で驚愕し喑病(失語)となった際、成は取り急ぎ急を告げ許可を待たず華州に駆けつけ、代宗はこれを嘉し「急難への切なる思いに仁を見る」と嘆じた。倉部郎中・京兆少尹を経て信州刺史に出て恵政を敷き郡人が頌徳碑を望むほどであった。蘇州刺史に転じ、貞元四年、桂州刺史兼桂管観察使に改められ、五年に卒した。
  • 宿の子の公器は信州刺史・邕管経略使に至った。公器の子の簡・範はともに進士に及第し、会昌以後、兄弟相継いで顕職を歴任、諸道観察使を務めた。簡は兵部尚書に至り、その子の紓・徽もともに進士に及第した。