舊唐書卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 高麗
高麗は扶余の別種で平壌城を都とする東北の国。隋唐と抗争を続け、実権者蓋蘇文の専断のもと太宗の親征をも退けたが、蓋蘇文死後の内紛に乗じた唐の攻撃により総章元年(668年)に滅亡した。
高麗
- 高麗は扶余の別種で、国都は平壌城(漢の楽浪郡の故地)、長安の東5100里にある。東は海を渡って新羅、西北は遼水を渡って営州、南は海を渡って百済、北は靺鞨に至る。国土は東西3100里、南北2000里。
- 官制は大対盧(一品に比す。国事を総知し3年ごとに交代するが、有能なら任期に拘らない。交代時にしばしば武力衝突が起き、勝者が就任する)を筆頭に、太大兄(正二品相当)以下12級。地方は州県60余城、大城には都督相当の傉薩、諸城には刺史相当の道使を置く。
- 服飾は王のみ五彩を用い、白羅冠・白皮帯(金飾)。貴官は青羅冠・緋羅冠に鳥羽・金銀を飾る。庶民は褐衣に弁を戴き、婦人は巾幗を頭に載せる。囲碁・投壺・蹴鞠を好み、籩豆・簠簋・尊俎などの祭器を用い箕子の遺風を残す。
- 住居は山谷に依り茅葺きが基本(仏寺・神廟・王宮・官府のみ瓦葺き)。貧しい者が多く、冬は温突(長坑に火を焚く暖房)を用いる。農耕・養蚕は中国とほぼ同じ。
- 法は厳格で、謀反者は火で焼いてから斬首し家財を没収、城を守らず降伏した者・戦場で敗走した者・殺人強盗は斬刑、盗みは12倍の賠償、牛馬を殺した者は身を没して奴婢とする。それゆえ路に遺失物を拾う者がいないほど治安が良い。淫祀が多く、霊星神・日神・可汗神・箕子神を祀り、10月には国城東の神隧という大穴で王自ら祭る。
- 書籍を尊び、庶民の家でも街に「扃堂」という学舎を建て、子弟が未婚のうちは昼夜そこで読書・弓射の稽古をする。蔵書は五経・史記・漢書・范曄後漢書・三国志・孫盛晋春秋・玉篇・字統・字林・文選など。
- 王高建武(前王高元の異母弟)は武徳2年(619年)に遣使朝貢、4年にも朝貢。隋末の戦士が多く高麗領内に取り残されていたため、高祖は5年(622年)建武へ書を賜り、両国民の相互送還を求めた。建武は華人を捜索し礼を尽くして送還、数万人が帰還し高祖は大いに喜んだ。
- 武徳7年(624年)、刑部尚書沈叔安を遣わし建武を上柱国・遼東郡王・高麗王に冊立、天尊像と道士を伴わせ『老子』を講じさせ数千人が聴講した。高祖は「高麗は隋には臣従しつつ煬帝に背いた、臣従の実などない」と、称臣を求めない詔を発しようとしたが、侍中裴矩・中書侍郎温彦博の諫言(遼東は古の箕子の国・漢の玄菟郡であり臣従を許すべきでない、との論)により中止した。
- 武徳9年(626年)、新羅・百済が高麗による道路封鎖を訴え、員外散騎侍郎硃子奢を派遣して和解させた。建武は謝罪し新羅との会盟を求めた。
- 貞観2年(628年)、突厥頡利可汗撃破を建武が祝賀し封域図を献上。5年(631年)、広州都督府司馬長孫師を遣わし隋代戦死者の遺骨を収め、高麗が築いた「京観」(戦勝記念の骨塚)を破壊させた。建武はこれを恐れ、扶余城から海に至る長城を築いた。14年(640年)、太子桓権が来朝し方物を貢いだ。
- 16年(642年)、西部大人蓋蘇文が職務怠慢を咎められそうになり、諸大臣と建武が誅殺を謀ったが露見。蘇文は兵を集め酒宴と称して城南に大臣らを招き百余人を殺害、王宮を襲い建武を殺して建武の弟の子・蔵を王に立てた。自らは莫離支(中国の兵部尚書兼中書令に相当)を称し国政を専断した。蘇文は姓を銭氏といい、体躯魁偉で常に5本の刀を帯び、属官を平伏させ踏み台に使うほど威を張った。
- 太宗は建武の死を悼み弔祭させた。17年(643年)、蔵を遼東郡王・高麗王に封じ、司農丞相里玄奨を派遣し新羅攻撃の停止を諭させたが、蓋蘇文は「新羅は隋の混乱に乗じて高麗の地500里を奪った、返還なくば兵は止められない」と拒絶。太宗は「莫離支は主を弑し大臣を皆殺しにした、討伐の名分は十分」と侍臣に語った。
- 19年(645年)、刑部尚書張亮を平壌道行軍大総管とし水軍4万・戦船500艘で海路平壌へ、特進英国公李勣を遼東道行軍大総管、江夏王道宗を副として陸軍6万で遼東へ進め、太宗自ら六軍を率いて合流。李勣は蓋牟城・沙卑城を落とし2万余を捕虜、遼東城では投石機と火攻めで攻略し1万余人を焼死させ捕虜1万余口を得た(遼州設置)。白岩城では右衛大将軍李思摩が負傷し太宗自らその血を吸って将士を感激させ、城主孫伐音の降伏を受け岩州を設置。安市城救援に来た高麗の傉薩高延寿・耨薩高恵貞率いる15万を、李勣・長孫無忌・太宗自らの伏兵作戦で大破し、駐蹕山と命名、『破陣図』を作らせ許敬宗に文を撰ばせた。延寿らは投降し、靺鞨兵3300は坑殺、余衆は平壌へ帰した。
- 8月、安市城攻略を試みるも城兵が頑強に抵抗、江夏王道宗の築いた土山が崩れ高麗軍に奪われる失態(果毅都尉傅伏愛を斬る)もあり、3日攻めても落とせず。遼東の兵糧不足と将兵の寒さから太宗は撤兵を決断。城主は太宗の武威を敬い城を挙げて拝礼、太宗は絹百匹を賜った。遼東城で捕虜となり奴婢に処されるはずだった1万4千人は、太宗が布帛で買い戻し百姓に赦した。高延寿は憂死し、高恵真は長安に至った。
- 20年(646年)、高麗が謝罪の使者と美女2人を献じたが、太宗は「郷里への思いを傷つけたくない」として送り返した。22年(648年)、薛万徹らが海路より鴨緑水を攻め泊灼城を破る戦果を挙げた。太宗は江南で大船を造らせ大規模な再征討を計画したが、実現前に崩御。高宗も任雅相・蘇定方・契苾何力らに討伐させたが大功なく終わった。
- 乾封元年(666年)、高蔵が子を入朝させ泰山封禅に陪席。この年蓋蘇文が死に、子の男生が莫離支を継いだが弟の男建・男産と不和になり、男生は国内城に拠って抗戦、子の献誠が唐に救援を求めた。契苾何力の救援後、男生は唐に投降し遼東大都督・玄菟郡公に封ぜられた。11月、司空李勣を遼東道行軍大総管に任命し高麗遠征を発令。
- 総章元年(668年)9月、李勣は平壌城南に陣を進め、僧信誠の内応により城門が開かれ突入、男建は自刺したが死にきれず捕縛。高蔵・男建らを捕虜として長安に献じ、高蔵は司平太常伯、男産は司宰少卿、男建は黔州配流、男生は右衛大将軍・汴国公とされた。
- 高麗旧領は都督府9・州41・県100に再編され安東都護府が統括、有功の酋長を都督・刺史・県令に任じ薛仁貴を鎮守とした。儀鳳中、高宗は高蔵を遼東都督・朝鮮王に封じ本蕃を治めさせたが、高蔵は靺鞨と通謀して叛乱を図り露見、邛州へ配流。永淳初年に卒し、頡利可汗の墓の傍らに葬られた。垂拱2年、孫の宝元を朝鮮郡王に封じ、聖暦元年には忠誠国王として旧民統轄を委ねようとしたが実現せず、2年には高蔵の子徳武が安東都督となったが、以後高麗遺民は分散し高氏の宗嗣は絶えた。
- 男生は儀鳳初年に長安で没し并州大都督を贈られた。子の献誠は右衛大将軍となり、則天朝に射術を賭す試みで漢人の武官の名誉を守るよう諫言し嘉納された。しかし酷吏来俊臣に賄賂を拒んだことから謀反の罪を着せられ絞殺された。則天は後に冤罪と知り右羽林衛大将軍を追贈し礼を改めて葬らせた。