舊唐書卷一百九十八 孔紹安・袁朗・賀德仁・庾抱・蔡允恭・鄭世翼・謝偃・崔信明・張蘊古・劉胤之・張昌齡・崔行功・徐齊聃・杜易簡・盧照鄰・楊炯・王勃・駱賓王・鄧玄挺

  • 前代の文章家はみな《謨》《誥》《詩》《騷》を範とし毛詩鄭箋の訓詁や班固揚雄の述作を尊んだが、時代ごとに文質・風俗・学識・才性は異なり、孔子が三代の《易》を演じ諸国の《詩》を削ったのも今の世に名を残すためであった。古を是とし今を非とするのは通論ではない。伯楽でなければ駑馬と駿馬を見分けられず、延陵季子でなければ雅楽と鄭声を聞き分けられぬのと同様、文章の巧拙も見る目が要る。
  • 我が唐に至り太宗が武を解いて学校を開き儒生を礼遇して以来、賢俊が輩出し、高宗・則天も詳延を重んじ、燕国公張説・許国公蘇頲の潤色、吳兢・陸贄の鴻業の鋪揚、元稹・劉蕡の対策、王維・杜甫の詩作に至るまで、みな天成の才であり隋珠孔璣のごとく磨かずして輝いた。爵位の高い者は別に伝を立てるため、ここでは孔紹安以下を《文苑》三篇として採り、不遇のうちに埋もれた才人を千古に知らしめる。

孔紹安

  • 孔紹安は越州山陰の人、陳吏部尚書孔奐の子。若くして兄の紹新と共に文詞で知られた。13歳で陳滅亡に遭い隋に入り京兆鄠縣に移り住み、閉門して古文集数十万言を誦し、外兄の虞世南に驚嘆された。紹新は世南に「本朝は滅んだが、この弟がいれば家門は滅びぬ」と語った。詞人孫萬壽と忘年の交わりを結び「孫・孔」と並称された。
  • 大業末、監察御史。高祖が河東で討賊した際、その軍を監する詔を受け深く優遇された。高祖受禅後、洛陽から間道を経て帰順すると高祖は大いに喜び内史舍人を拝し宅一区・良馬二匹・銭米絹布を賜った。同じく御史として高祖軍を監した夏侯端は紹安より先に帰順し秘書監を授けられていた。侍宴の際に詔に応じて詠んだ《石榴詩》の「時来るのが遅かったばかりに、花咲くも春に間に合わぬ」の句は当時称えられた。《梁史》の撰修を命じられたが未完のまま卒した。文集五卷。

附 孔禎

  • 子の禎は高宗時代、蘇州長史。刺史の曹王李明が法度に従わぬのをたびたび諫め「恩寵は恃めぬ、王命に従わねば今の栄位も保てぬ、淮南(李神通の子李孝逸か)の例を見なかったか」と言うと明は不快がった。明の側近で下人を虐げた者を捕らえて杖殺した。明はのち罪を得て黔中に遷され「孔長史の言を用いなかったのを恥じる」と語った。禎は絳州刺史・武昌縣子に累遷し、卒して謚は温。

附 孔季詡

  • 子の季詡は早くから名を知られ左補闕に至った。

附 孔若思

  • 紹安の孫若思は幼くして父を失い母の褚氏に自ら教育され学行で知られた。若い頃、褚遂良の書跡数巻を贈られた際、一巻のみ受け取り「価値が黄金に比するなら十分すぎる」と半分を切って返した。明經に及第し庫部郎中に累遷、常々「郎中まで至れば十分」と語り座右に水を張った石を置いて足るを知る意を示した。まもなく給事中に遷った。
  • 中宗即位後、敬暉・桓彥範らが国政を執った際、故事に詳しい若思に改革の大事や疑議を多く諮った。礼部侍郎を経て衞州刺史に出た。当時諸州の別駕は宗室が任じられ刺史に敬意を払わず不法を行うことが多かったが、若思は別駕李道欽の犯状を奏し鞫問を請い、以後別駕が刺史に礼を尽くすことが定められたのは若思に始まる。清廉で銀青光祿大夫を加えられ絹百匹を賜り、汝州刺史・太子右諭德を歴任し梁郡公に封ぜられた。開元十七年に卒し謚は惠。

袁朗

  • 袁朗は雍州長安の人、陳尚書左僕射袁樞の子。その先は陳郡より江左に仕え代々冠族で陳滅亡後に関中へ移った。勤学で文を好み、陳では秘書郎を初任とし尚書令江總に重んじられた。千字詩を作り盛作と称され、陳後主が召して《月賦》を作らせると即座に染筆し「謝希逸も独り美とは称せまい」と評された。《芝草》《嘉蓮》の二頌も高く評価された。太子洗馬・德教殿学士を経て秘書丞に遷った。
  • 陳滅亡後は隋の尚書儀曹郎、武德初、齊王文學・祠部郎中を歴任し汝南縣男に封ぜられ給事中に転じ、貞觀初、在官のまま卒した。太宗は朝を一日廢し高士廉に「朗は在任こそ浅いが謹厚な性で惜しい」と語り喪事を給し妻子を存問させた。文集十四卷。

附 袁承序

  • 從父弟の承序は陳尚書僕射袁憲の子。武德中、齊王李元吉に召され学士となった。府廢後は建昌令を歴任し清静な政で士吏に慕われた。高宗が藩にあった頃、太宗が学行の士を選ぶ中、中書侍郎岑文本が「隋が陳を平定した際百司が奔散する中、袁憲だけが主の傍らに留まった。王世充の受禅の際も憲の子承家は独り勧進の署名を拒んだ、この父子は忠烈と称すべき。弟の承序も清貞な操を継いでいる」と推挙し、晉王友・侍讀に召され弘文館学士を加えられたが、まもなく卒した。

附 袁利貞

  • 朗の従祖弟利貞は陳中書令袁敬の孫。高宗時代、太常博士・周王侍讀。永隆二年、周王の立太子に伴う百官上礼の宴で九部伎・散樂を正殿で行おうとしたのを「正殿は命婦宴会の場ではなく象闕路門は倡優進禦の所ではない」と諫め、帝は麟德殿へ移した。宴で帝は中書侍郎薛元超を通じ「卿の家門は忠鯁の疏を上げる家風、厚く賜わねば奨励にならぬ」として物百段を賜った。まもなく祠部員外郎に遷り卒した。中宗即位後、侍讀の恩により秘書少監を追贈された。
  • 朗の十三代祖は漢司徒袁滂、以下魏御史大夫袁渙・晉尚書袁準・東晉右將軍袁沖・司徒從事中郎袁耽・瑯邪內史袁質・丹陽尹袁豹・宋吳郡太守袁洵と代々高名重位を保ち前史に伝がある。五代叔祖の宋太尉袁淑、高祖父の左僕射袁顗、高祖の司空袁察はいずれも国難に死し、曾祖の梁中書監司空穆公袁昂は仕齊後に梁の受禅に久しく朝命を辞した。父の袁樞と叔父の袁憲は陳の僕射、叔祖の袁敬は中書令であり、陳滅亡時に憲は身を挺して後主を守った。朗はこうした一族の由緒を誇り瑯邪王氏に劣らぬ冠族と自負し、他家を軽んじた。

附 袁誼

  • 朗の孫誼は虞世南の外孫でもある。神功中、蘇州刺史。司馬の張沛(侍中張文瓘の子)が「隴西李亶は天下屈指の名門を長史に得た」と誇ると、誼は「門戸は代々の賢才・名節・風教によって決まるもの、山東の人々は婚姻や禄利ばかり求め危急に身を捧げる者は稀だ、私こそその例だ」と反駁し、沛は恥じて退いた。当時の話柄となった。

賀德仁

  • 賀德仁は越州山陰の人。父の朗は陳散騎常侍。德仁は從兄の賀基と共に国子祭酒周弘正に師事し詞学で称され「学行は師とすべき賀德基、文質彬彬たる賀德仁」と評された。兄弟八人あり荀氏の八龍に比された。陳の鄱陽王伯山が会稽太守のとき居所を「高陽裏」と改めさせた。陳では吳興王友に至った。
  • 隋入り後、僕射楊素の推挙で豫章王府記室参軍、王に師として礼遇された。煬帝即位後、豫章王が齊王に改封されるとその府属となり、齊王が譴責された際も忠謹ゆえ罪を免れ河東郡司法に出た。隠太子(李建成)と親しく、高祖平京後に隴西公となった建成に隴西公友として招かれた。太子中舍人に遷ったが老衰で吏事に堪えず太子洗馬に転じ、蕭德言・陳子良と共に東宮学士となった。貞觀初、趙王友に転じまもなく70余歳で卒した。文集二十卷。
  • 弟の子の紀・敳も博学で知られ、高宗時代、紀は太子洗馬として《五禮》を修め、敳は率更令兼太子侍讀に至り兄弟とも崇賢館学士となり学者に栄とされた。

庾抱

  • 庾抱は潤州江寧の人、その先は潁川より移った。祖父の眾は陳御史中丞、父の超は南平王記室。開皇中、延州参軍事。のち吏部の詮考で尚書牛弘に学才を認められその場で文を作り驚嘆された。元德太子(楊昭)の学士に補され厚遇を受け、皇孫誕生の宴で《嫡皇孫頌》を献じ称賛された。のち越巂主簿に任じられたが病と称し赴任せず、義寧中、隱太子李建成に隴西公府記室として招かれ軍国の文檄を一手に引き受けた。まもなく太子舍人に転じたが間もなく卒した。文集十卷。

蔡允恭

  • 蔡允恭は荊州江陵の人。祖父の點は梁尚書儀曹郎、父の大業は後梁左民尚書。風彩があり文を綴るに巧みで、隋では著作佐郎・起居舍人を歴任し詠吟を得意とした。煬帝の詞賦を諷誦させられたが、宮女への教授を命じられると恥じて病と称し応じず、内史舍人を授けて再度入内教授を命じられても固辞し疎んじられた。江都の変で宇文化及に従い西上、竇建德の下に没した。東夏平定後、太宗に秦府参軍兼文学館学士に招かれ、貞觀初、太子洗馬。まもなく致仕し家で卒した。文集十卷、《後梁春秋》十卷を撰した。

鄭世翼

  • 鄭世翼は鄭州滎陽の人、代々の著姓。祖父の敬德は周儀同大将軍、父の機は司武中士。弱冠で盛名があった。武德中、萬年丞・揚州録事参軍を歴任したが言葉で人を怒らせることが多く「軽薄」と称された。崔信明が文章第一を自負していた際、江中で出会い「楓落吳江冷」の句を口にして見せるよう求めさせ、百余篇を示されると読み切らぬうちに「聞いていたほどではない」と江に投げ捨て、信明は言葉もなく舟を漕いで去った。貞觀中、怨謗の罪で巂州に流され卒した。文集は多くが散逸したが《交遊傳》は世に行われた。

謝偃

  • 謝偃は衛縣の人、本姓は直勒氏。祖父の孝政は北齊散騎常侍のとき謝氏に改姓した。隋で散從正員郎。貞觀初、応詔対策に及第し高陵主簿を歴任。(貞觀)十一年、東都行幸中、谷水・洛水の氾濫で洛陽宮が浸水した際、直諫を求める詔に応じ封事を上げ得失を極言し、太宗に称賛され弘文館直学士に招かれ魏王府功曹を拝した。
  • 《塵》《影》の二賦を作り高く評価され、太宗自ら賦序を作り「天下泰平にして功徳盛ん」と述べさせて撰させた賦は《述聖賦》と名付けられ采数十匹を賜った。さらに《惟皇誡德賦》を諷諫のため献じ、治世にあっても乱を、安にあっても危を忘れぬこと、盛時にこそ初心を忘れず、殿堂にいれば前代の滅亡を思い、万国に臨めば己の貴さの由来を思い、府庫を巡れば得た所以を思い、功臣・名将を見れば共に事を始めた頃を思うべきと説き、堯舜と桀紂の差は一念の忘・不忘にすぎぬと結んだ。
  • 李百藥が五言詩に長じ偃が賦に優れたことから「李詩謝賦」と並称された。(貞觀)十七年、府廢により湘潭令に出てそこで卒した。文集十卷。

崔信明

  • 崔信明は青州益都の人、後魏七兵尚書崔光伯の曾孫。祖父の縚は北海郡守。信明は五月五日正午に生まれ、色とりどりの小さな異雀数羽が庭木に集い羽ばたき鳴いたという。隋太史令史良がこれを占い「五月は火、火は離、離は文彩、正午生まれは文の盛んな証、五色の雀も鳴くのは文藻の盛大を示すが、雀の体が小さいゆえ禄位は高くならぬだろう」と予言した。長じて博聞強記、筆を執れば文を成した。郷人の高孝基は「才学は豊かで一時に名を冠すが、位は達しないのが惜しい」と評した。
  • 大業中、堯城令。竇建德が僭号し登用しようとした際、族弟で建德の鴻臚卿であった敬素が「隋は無道、天下は乱れ衣冠礼楽は地に落ちた、下僚に埋もれるのは豫讓が中行氏に報いなかったのと同じ理屈にすぎぬ、夏王(建德)は天下を併せる志があり多くの士女が集まっている、今こそ功を立てる時」と説いたが、信明は「申胥(伍子胥)は海辺の漁夫にすら節を全うさせた、偽主に身を屈して些末な職を求めることはしない」と拒み、城を越えて太行山に隠れた。貞觀六年、応詔挙により興世丞、秦川令に至り卒した。
  • 信明は驕慢で自負が強く、常に詩を吟じては李百藥に勝ると自称し世人の多くはこれを認めなかった。また門地を誇り四海の士望を軽んじ世に譏られた。子の冬日は則天時代、黃門侍郎となったが酷吏に殺された。

張蘊古

  • 張蘊古は相州洹水の人。聡敏で書伝に博く文を綴るに巧みで、碑文を暗誦し碁局を諳んじるほどであった。時務に明るく州里に称された。幽州総管府記室から中書省に直した。太宗即位の初め、諷諫のため《大寶箴》を上表し、君主たる者は天下万民のために身を修めるべきこと、驕らず賢を侮らず智を恃んで諫を拒まぬこと、夏の桀王・魏の文帝の故事に学び漢高祖の大度と周文王の小心を併せ持つべきこと、賞罰は衆の意に従い衡や水鏡のように公平であるべきことなどを説いた。太宗は嘉して束帛を賜い大理丞に任じた。
  • 河内の李孝德はもとより風疾(精神を病む)があり妄言を発した咎で獄に問われたが、蘊古は病による症状で法に問うべきでないと裁いた。治書侍御史権萬紀は蘊古の家が相州にあり孝德の兄厚德がその刺史であることを理由に阿縦(情実による軽罪扱い)を弾劾し不実奏事を訴えた。太宗は激怒し「小僧が吾が法を乱すか」と東市で斬らせた。太宗はまもなく後悔し、死刑は五度上奏を経て決するという制を発した。これが五覆奏の始まりである。

劉胤之

  • 劉胤之は徐州彭城の人。祖父の祎之は後魏臨淮鎮将。若くして学業があり隋の信都丞孫萬壽・宗正卿李百藥と忘年の交わりを結んだ。武德中、御史大夫杜淹の推挙で信都令に累遷し恵政で知られた。永徽初、著作郎・弘文館学士に累遷し国子祭酒令狐德棻・著作郎楊仁卿らと国史及び実録を撰し奏上、陽城縣男に封ぜられた。老齢で著述に堪えず楚州刺史に出て卒した。

附 劉延祐

  • 弟の子延祐は弱冠で本州から進士に挙げられ渭南尉に累補し、刀筆吏の能で畿邑随一と称された。司空李勣に「若くしてすでに大名を得ている、少し謙抑せよ」と忠告された。右司郎中・検校司賓少卿を経て薛縣男に封ぜられた。
  • 徐敬業の乱の平定後、揚州の刑名処理を命じられた際、賊軍に加担して五品官を受けた者を斬罪、六品官を流罪とする議論に対し、延祐は元謀でない脅従者に極刑を科すのは冤枉と主張し、受賊五品を流罪、六品以下は除名のみとし多くの命を救った。
  • 箕州刺史を経て安南都護に転じた際、嶺南の俚戸から従来の半課を全課に取り立てたため民の怨みを買った。首謀者李嗣仙を誅殺したが、垂拱三年、嗣仙の党与丁建・李思慎らが安南府を包囲、城中の兵は数百人に満たず籠城して援軍を待った。広州の大族馮子猷は災いを幸いと見て按兵し敵を放置したため被害は拡大、延祐は思慎に殺された。その後、桂州司馬曹玄靜が兵を率い思慎らを討ち捕らえ安南城下で斬った。

附 劉藏器

  • 胤之の従父兄の子藏器も詞学があり宋州司馬に至った。藏器の子知柔は開元初、工部尚書。知柔の弟知幾は玄宗の諱を避け子玄と改名し別に伝がある。

張昌齡

  • 張昌齡は冀州南宮の人。弱冠で文詞で知られ、本州が秀才科で推挙しようとしたが久しく廃されていた科であることを理由に固辞し進士貢挙で及第した。貞觀二十一年、翠微宮完成に際し頌を献じ、太宗に召見され《息兵詔》の草案を即座に作り甚だ悦ばれた。太宗は「昔、禰衡・潘嶽は才を恃み人を傲り非命に終わった、汝の才は二賢に劣らぬがその轍を踏まぬように」と語り通事舍人に配して供奉させた。
  • 昆山道行軍記室として盧明月討伐・亀茲平定の露布はみな昌齡の文であった。長安尉に転じ襄州司戸に出、丁憂で去官。のち賀蘭敏之に北門修撰へ招かれたがまもなく罷めた。乾封元年に卒した。文集二十卷。兄の昌宗も学業があり太子舍人・修文館学士に至り《古文紀年新傳》三十卷を撰した。

崔行功

  • 崔行功は恆州井陘の人、北齊鉅鹿太守崔伯讓の曾孫、博陵より移り住んだ。若くして学を好み、中書侍郎唐儉にその才を愛され娘を娶らされた。儉の征討の文表はみな行功の筆による。高宗時代、吏部郎中に累遷、奏上の巧みさで通事舍人・内供奉を兼ね、事に連座して遊安令に貶められたがまもなく司文郎中に召還された。当時朝廷の重要な文書は行功と蘭臺侍郎李懷儼の筆になるものが多かった。
  • かつて太宗が秘書監魏征に四部の群書を写させ内庫に納めるため讎校二十人・書手百人を置いたが、征の死後は虞世南・顏師古らが継ぎ、高宗初年もなお未完であった。顯慶中、讎校・御書手を廢し工書の者に賃写させ散官を輪番で讎校させることとし、その後、東臺侍郎趙仁本・東臺舍人張文瓘及び行功・懷儼らが相次いで検校の使を務め、詳正学士を置いて校理させ行功は御集を専管した。蘭臺侍郎に遷った。
  • 咸亨中、官名が旧に復し秘書少監に改められた。上元元年、在官のまま卒した。文集六十卷。兄の子玄暐には別に伝がある。行功は《晉書》《文思博要》の撰にも与った。同時代に孟利貞・董思恭・元思敬らも文藻で知られた。

附 孟利貞

  • 孟利貞は華州華陰の人。父の神慶は高宗初、沁州刺史として清廉で知られた。利貞は太子司議郎を初任とし、中宗の東宮時代深く畏敬された。詔により少師許敬宗・崇賢館学士郭瑜・顧胤・董思恭らと《瑤山玉彩》五百卷を撰し、龍朔二年に奏上、高宗に称えられ加級と賜物を得た。著作郎・弘文館学士に累遷し垂拱初に卒した。《續文選》十三卷も撰した。兄の允忠は垂拱中、天官侍郎。

附 董思恭

  • 董思恭は蘇州吳の人。詩文が世に重んじられた。右史として考功の挙事を知る立場にありながら問目を漏らした罪で嶺表に流され死んだ。

附 元思敬

  • 元思敬は總章中、協律郎。《芳林要覽》の撰に与り《詩人秀句》二卷を撰し世に伝わった。

徐齊聃

  • 徐齊聃は湖州長城の人。父の孝德は娘が才人となった縁で果州刺史に至った。齊聃は若くして文に巧みで高宗時代、蘭臺舍人に累遷。突厥酋長の子弟に東宮に仕えさせる勅が出た際、皇太子の左右には端士・正人を選ぶべきで異民族の子弟を近侍させるのは道義に疑いがあると上疏し、《詩》の「威儀を敬慎して有徳に近づく」《書》の「賢才を任じ正しき人を左右に置く」の句を引いて防微の重要性を説いた。
  • また齊獻公(則天の外祖父武士彟の父にあたる)の廟が則天の意向で修められる一方、忠孝公廟(周氏の廟)が毀壊しているのは孝理の風を示す上で疑わしいと上奏し、帝はいずれの言も納れた。
  • 文誥に巧みで高宗に文才を愛され周王らの侍讀を兼ね、機密の職ゆえ隔日の出入りを命じられたが、機密を漏らした罪で蘄州司馬に降され、さらに事に連座し欽州に流された。咸亨中、40余歳で卒した。睿宗即位後、旧恩により累って礼部尚書を追贈された。子の徐堅には別に伝がある。

杜易簡

  • 杜易簡は襄州襄陽の人、周硤州刺史杜叔毗の曾孫。9歳で文を綴り、長じて博学高名、姨兄の中書令岑文本に重んじられた。進士に及第し殿中侍御史に累遷。咸亨中、考功員外郎。吏部侍郎裴行儉と李敬玄が不仲であった際、行儉の意を受けた易簡は吏部員外郎賈言忠と共に敬玄の罪状を封上したが、高宗は朋党を嫌い易簡を開州司馬に左遷しまもなく卒した。《御史臺雜註》五卷・文集二十卷を撰し世に行われた。

附 杜審言

  • 從祖弟の審言は進士に及第し隰城尉を初任、五言詩に長じ書翰も巧みで名声があったが才を恃み傲慢で同輩に憎まれた。乾封中、蘇味道が天官侍郎として銓選を行った際、審言は判文を見て「蘇味道は必ず死ぬだろう、私の判を見れば恥じ死ぬに違いない」と豪語し、また「私の文章は屈原・宋玉を属官にできるほど、書は王羲之を北面させるほど」と誇った。
  • 洛陽丞に累遷後、事に連座し吉州司戸参軍に貶められ、州の同僚と不和となり司馬周季重と員外司戸郭若訥が審言の罪状を構えて投獄し殺そうとした。季重らが府中で酒宴中、審言の子の並(13歳)が刃を懐に忍ばせ襲撃し季重を刺し殺したが並自身も左右に殺された。季重は死に際「審言に孝子がいるとは知らなかった、郭若訥に誤られた」と語ったという。審言はこれにより免官され東都に帰り自ら祭文を作り並を弔い、士友は並の孝烈を哀れみ蘇頲が墓誌を、劉允濟が祭文を作った。
  • のち則天に召見され「喜んでいるか」と問われ舞い上がって謝恩し、命じられて作った《歡喜詩》が高く評価され著作佐郎を拝し膳部員外郎に遷った。神龍初、張易之兄弟との交わりに連座し嶺外に流されたが、まもなく国子監主簿・修文館直学士に召され60余歳で卒した。文集十卷。次子の閑、閑の子の甫(杜甫)には別に伝がある。

盧照鄰

  • 盧照鄰、字は升之、幽州范陽の人。十余歳で曹憲・王義方に《蒼》《雅》及び経史を学び博学で文に巧みであった。鄧王府典簽を初任とし王に「これぞ寡人の司馬相如」と愛重された。のち新都尉を拝したが風疾(癩病)を患い官を辞し太白山に籠って服餌に努めた。病がさらに重くなると陽翟の具茨山に移り《釋疾文》《五悲》などを著し、騒人の風が甚だ文士に重んじられた。
  • 病苦に堪えかね親族と別れを告げ、潁水に身を投げて死んだ、時に40歳。文集二十卷。兄の光乘も名を知られ長壽中、隴州刺史となった。

楊炯

  • 楊炯は華陰の人。伯祖の虔威は武德中、右衛将軍に至った。炯は幼くして聡敏博学、文に巧みで神童挙により校書郎を拝し崇文館学士となった。儀鳳中、太常博士蘇知幾が公卿以下の冕服に別の節文を立てるよう上表し詔で有司に議論させた際、炯は反対の議を献じた。
  • 炯は太昊庖羲氏以来の書契の由来、黃帝の垂衣裳の治から歴代の正朔・服色の変遷(夏建寅・殷建丑・周建子、夏尚黑・殷尚白・周尚赤)を述べ、《虞書》の日月星辰・山龍・華蟲・宗彜・藻・火・粉米・黼・黻の九章がそれぞれ聖王の徳(光照・沾沢・応変・文明・武断・随時応変・日新・民の頼るところ・果断・君臣の可否相済)を象るものであることを説いた。周が袞冕・柷冕・毳冕・絺冕・玄冕の別を先王・先公・四望・社稷・群小祀それぞれに定めた由来にも及んだ。
  • その上で蘇知幾の提案した「大明冕十三章」は、日月星辰は既に旌旗にあり龍武山火も古に逾えず、雲麟鳳・玄龜・雲・水などは休徴の別表にすぎず法服に加えるべきでないこと、「鸞冕八章」は鸞が三公の徳を象らず鷹鹯・熊羆こそ祥刑や武臣を象るのに適すること、藻を蓮に代える説は草木の名も文章の意も理解していないこと、「毳冕六章」を三品に着せるのは王の毳冕と混同し矛盾すること、「黻冕四章」を五品に着せるのは古にも今にも典拠がないことを逐条批判し、周公・孔子の定めた法服の軌物を勝手に改めるべきでないと結論した。この議により知幾の提案は退けられた。
  • まもなく詹事司直に遷った。則天初、従祖弟楊神讓の逆謀に連座し梓州司法参軍に左遷、任期満了で盈川令に転じた。如意元年七月望日、宮中の盂蘭盆会に則天が洛南門で百官と観覧した際、《盂蘭盆賦》を献じその詞は雅麗であった。しかし在官中は政が苛酷で吏人の意に沿わぬとすぐ杖殺し、居所の府舎に進士の亭台を模した美名の額を掲げるなど遠近に笑われ、まもなく在官のまま卒した。中宗即位後、旧僚として著作郎を追贈された。文集三十卷。
  • 炯は王勃・盧照鄰・駱賓王と文詞で並び称され「王楊盧駱」「四傑」と呼ばれた。炯自身は「盧の下にいるのは恥ずかしいが王の上に立つのも憚られる」と語り、当時の議者もこれを是とした。のちに崔融・李嶠・張說も四傑の文を重んじ、崔融は「王勃の文は宏逸で常流の及ぶところでない、炯と照鄰はこれに迫れる」と評し、張說は「楊炯の文思は懸河の水のごとく尽きず盧に優り王にも劣らぬ」と評した。
  • 開元中、集賢大学士を十余年務めた張說は学士徐堅と近代文士の優劣を論じ、李嶠・崔融・薛稷・宋之問の文を「良金美玉」、富嘉謨の文を「孤峰絶岸のごとく畏るべきだが廊廟には施し難い」、閻朝隱の文を「観る者は忘我するが風雅に類すれば罪人」と評し、さらに後進では韓休の文を「大羹旨酒だが滋味に薄い」、許景先の文を「豊肌膩理だが風骨に乏しい」、張九齡の文を「軽縑素練だが辺幅に窘しい」、王翰の文を「瓊懷玉斝だが玷欠が多い」と評し、徐堅もこれに同意した。
  • 楊虔威の子徳幹は高宗末、澤・齊・汴・相四州刺史を歴任し威名があり「三斗の蒜を食うとも楊德幹には遭いたくない」と郡人に評された。その子の神讓は天授初、徐敬業に加わり揚州で謀反し父子とも誅された。

王勃

  • 王勃、字は子安、絳州龍門の人。祖父の王通は隋の蜀郡司戸書佐であったが大業末に官を辞し著書講学を業とし、《春秋》の体例に倣い獲麟以後秦漢から後魏に至る紀年書《元經》を、《孔子家語》や揚雄《法言》に倣った問答形式の《中說》を著し儒士に称された。義寧元年に卒し門人の薛収らは「文中子」と諡した。二子は福畤・福郊。
  • 勃は6歳で文を綴り才藻に富み兄の勔・勮と共に父の友人杜易簡に「王氏の三珠樹」と称された。幽素挙に及第、乾封初、《宸遊東嶽頌》《乾元殿頌》を献じ、沛王李賢に召され沛府修撰として愛重された。諸王の闘鶏に戯れて作った《檄英王雞文》が高宗の怒りを買い「争いを助長する兆し」として即日府を追われた。のち虢州参軍に補されたが、官奴曹達の罪を匿い発覚を恐れて達を殺し口を塞いだ事件で死罪に問われ赦により除名となった。父の福畤も勃に連座し交趾令に左遷された。
  • 上元二年、勃は父を訪ねて交趾へ赴く途中、江中で《采蓮賦》を作りその心情を寄せた。南海を渡る際に水に落ち28歳で卒した。
  • 兄の苾は弱冠で進士に及第し太子典膳丞を歴任、長壽中、鳳閣舍人に抜擢された。壽春王成器・衡陽王成義ら五王の同日冊立の儀で有司が冊文を失念していたのを、苾は即座に書吏五人に口授筆記させ完璧に整え人々を驚嘆させた。弘文館学士・知天官侍郎を兼ねたが権勢に近づき交友が悪く、萬歲通天二年、綦連耀の逆謀連座で弟の閟と共に誅された(神龍初、官位を追復)。閟は涇州刺史に至っていた。福畤は則天朝に子(勃)の縁で澤州長史に累遷し卒した。
  • 吏部侍郎裴行儉は人を見る目があり、苾と蘇味道を見て「二人はやがて銓衡の任に就くだろう」と評した。李敬玄が楊炯・盧照鄰・駱賓王・勃の四人を必ず顕貴すると重んじたのに対し、行儉は「士の大成は器識が先で文芸は後、勃らは文才があっても浮躁浅露で爵禄の器ではない、楊炯だけは沈静で令長までは至るだろう」と語り、果たしてその通りとなった。
  • 勃は文章に敏捷で著書を好み《周易發揮》五卷ほか数部を撰したが多くは死後散逸した。文集三十卷。推歩暦算にも精通し《大唐千歲歷》で唐の徳運が周・隋の短祚を継ぐものでなく千年に及ぶと論じた。その大旨は「土徳の王者は五十代で千年、金徳は四十九代で九百年、水徳は二十代で六百年、木徳は三十代で八百年、火徳は二十代で七百年、これが天地の常期であり、黄帝から漢までは五運の正統だが魏晉から周隋はいずれも正統でない気の乱れにすぎず、五行が一巡した今、土運が再び巡ってきた唐がこれを継ぐのが道理」というものであった。

駱賓王

  • 駱賓王は婺州義烏の人。若くして文に巧みで五言詩にとりわけ優れ、《帝京篇》は当時絶唱と称された。しかし素行は落魄で博徒と交わることを好んだ。高宗末、長安主簿。贓罪に連座し臨海丞に左遷され失意のうちに官を棄てた。文明中、徐敬業と揚州で乱を起こし、敬業軍の檄文はみな賓王の筆になるものであった。敬業敗死後、賓王は伏誅し文の多くは散逸したが、則天はその文才を重んじ捜させ、兗州の郤雲卿が十卷にまとめ世に広く伝わった。

鄧玄挺

  • 鄧玄挺は雍州藍田の人。若くして文に巧みで左史に累遷。上官儀と親しかった罪で頓丘令に出たが善政で璽書による労いを受け、中書舍人に累任した。機知に富み俊敏で朝廷の話柄となるほどであった。則天臨朝後、吏部侍郎に遷ったが不称職で時に鄙しめられ、加えて消渴(糖尿病)を患い選人から「鄧渴」と揶揄され街に貼り紙されるほどで、唐初以来これほど選官を誤った者はないと評され澧州刺史に左遷された。
  • 澧州でも善政が聞こえ晉州刺史に遷り、麟臺少監、さらに天官侍郎に復したがその失政は前にも増した。娘は道王李元慶の子李子諲の妻で蔣王の子李煒とも親しかった。子諲が中宗を房陵から迎える謀を玄挺に相談し、煒も「急計を起こしたいがどうか」と持ちかけたが、玄挺はいずれにも答えず告発もしなかった。永昌元年、罪を得て下獄死した。