舊唐書卷一百九十七 南蠻・西南蠻

林邑国

  • 林邑国は漢の日南象林の地、交州の南千余里にある。国王は木柵の城に住み、白氈古貝を斜めに掛け真珠瓔珞を飾り、髪を巻いて花を戴く。兵五千を擁し弩・䂎を用い、藤甲・竹弓で象に乗って戦う。同姓婚を行い、俗に文字があり仏法を篤く信じ、火葬の風があった。十二月を歳首とし稲は二毛作、檳榔汁で酒を作る。
  • 武徳六年、王范梵志が入朝、八年にも遣使。高祖は九部楽を設けて宴した。貞觀四年、王范頭黎が大きな火珠を献じ、五年には五色鸚鵡・白鸚鵡を献じたが太宗はこれを放って野に還させた。頭黎の死後、子の范鎮龍が継いだが、貞觀十九年に臣下の摩訶漫多伽独に殺され宗族もろとも誅された。国人は頭黎の女婿婆羅門を王に立てたのち、旧主を慕って頭黎の嫡女に代えた。林邑以南は総じて「崑崙」と呼ばれる。

婆利国

  • 林邑東南の海中洲にある。人はみな黒色で耳朶に穴をあけ、王姓は刹利耶伽、名は護路那婆。真珠瓔珞を飾り金床に座す。谷は二毛作、古貝草の花で布(粗いものを古貝、細いものを白疊という)を織る。貞觀四年、林邑使とともに遣使した。

盤盤国

  • 林邑西南の海曲にあり、狼牙修国と隣接。婆羅門書を学び仏法を敬う。貞觀九年、朝貢。

真臘国(水真臘国を含む)

  • 林邑西北、もと扶南の属国。王都は伊奢那城。戦象五千頭を擁し、佛道と天神を尊ぶ。武徳六年、貞觀二年に朝貢。神龍以後、真臘は南の水真臘(海に近く沼沢多い)と北の陸真臘(文単国とも)に分裂した。高宗・則天・玄宗朝も朝貢が続いた。
  • 水真臘国は東西南北約八百里、王城は婆羅提抜という。元和八年、李摩那らが来朝した。

陁洹国

  • 林邑西南の大海中、墮和羅に賓服。王姓は察失利、字は婆末婆那。桑蚕はなく白氈朝霞布を衣とし、干欄(高床式住居)に住む。貞觀十八年・二十一年に朝貢、白鸚鵡・婆律膏を献じ馬と銅鐘を求めた。

訶陵国

  • 南方海中洲にあり、東は婆利、西は墮婆登、北は真臘に接す。棕櫚皮葺きの大屋に象牙の床を置き、椰樹の花から酒を醸す。貞觀十四年、大暦三・四年、元和十年(僧祗僮五人・鸚鵡・頻伽鳥を献じた使者李訶内の逸話あり)、十三年(僧祗女二人ら)に朝貢。

墮和羅国

  • 南は盤盤、北は迦羅舎仏、東は真臘、西は大海に接し広州へ五月行程。貞觀十二年・二十三年に朝貢、象牙・火珠を献じ良馬を求めた。

墮婆登国

  • 林邑南、海路二月、東は訶陵、西は迷黎車に接す。稲は月に一度実り、貝多葉に文字を記す。死者は口に金を含ませ金釧で四肢を飾り婆律膏・龍脳で香を焚き火葬にした。貞觀二十一年、古貝・象牙・白檀を献じた。

東謝蠻

  • 黔州の西数百里、南は守宮獠、西は夷子、北は蛮と接す。牛耕をせず焼畑を行い、木を刻んで契約とし、樹上に層巣を構えて住む。牛馬銅鼓で功労者を賞し、婚姻は牛酒を聘礼とした。首領謝元深は世襲の酋長で、謝氏は女子を育てぬ慣わしがあった。
  • 貞觀三年、元深が入朝。烏熊皮冠に金銀を飾った異国風の装いに、中書侍郎顔師古が周の《王会篇》に倣い《王会図》を撰ぶよう奏請し許された。その地に応州を置き元深を刺史・黔州都督府に任じた。南謝の首領謝強も入朝し南寿州(のち荘州)刺史となった。
  • 貞元十三年、宋鼎ら牂牁近隣の首領(謝汕・宋万伝・謝文経)が朝貢の待遇改善を訴え、黔中経略招討観察使王礎の奏により牂牁両州と同様の待遇を得た。

西趙蠻

  • 東謝の南、東は夷子、西は昆明、南は西洱河に至る。首領は趙氏。貞觀三年に入朝、二十一年にその地を明州とし首領趙磨を刺史とした。

牂牁蠻

  • 首領も謝氏。無城壁で部落散居、稲粟は二毛作。首領謝龍羽は大業末に勝兵数万を擁した。武徳三年、龍羽は牂州刺史・夜郎郡公に封ぜられた。貞觀四年以降も断続的に朝貢し、開元十年に嫡孫嘉藝が官封を継いだほか、大暦〜会昌年間まで頻繁に朝貢が記録される。元和三年以降は黔南観察使が牂牁・昆明等使を差配することとなった。

南平獠

  • 智州・渝州・南州・涪州に接する地に部落四千余戸。干欄に住み、女は多く男は少なく、貧家は娘を富家の婢に売った。王姓は朱氏、劍茘王と号し渝州に隷属した。

東女国

  • 西羌の別種で、西海にも女国があるため東女国と呼ぶ。女を王とし、女官「高霸」が国事を議す。王都は康延川。戸四万余、勝兵万余。重層の楼に住み(王は九層)、青毛綾裙を服し金鈎の耳飾りをつける。鳥卜の風習があり、貴人の死には皮を剥いで骨を瓶に納める葬法があった。
  • 隋大業中、蜀王秀の招きを拒んだ。武徳中、王湯滂氏が遣使したが突厥に掠われ、頡利平定後に再入朝。垂拱二年、王斂臂が入朝し左玉鈐衛員外将軍に冊拝された。天授三年・万歳通天元年にも朝貢、開元二十九年、王趙曳夫は子を遣わし方物を献じ帰昌王に封ぜられた。
  • 貞元九年、王湯立悉が哥鄰国王董臥庭ら周辺諸小国王とともに劍南西川に内附し、韋皋がこれを維・霸・保等州に安置、立悉らは麟徳殿で朝見し官を授かった。西山松州の生羌二万余戸も相次いで内附し、韋皋は西山八国使を統押することとなった。

南詔蠻

  • 烏蛮の別種で姓は蒙氏、王を「詔」と呼ぶ。哀牢の後裔を自称し、六詔のうち蒙舎詔が最も強盛化した。細奴邏は高宗朝に、邏盛は武后朝に来朝し、邏盛の子盛邏皮が生まれた。
  • 開元初、邏盛の子盛邏皮、その子皮邏閣(歸義と賜名され越国公・雲南王)が五詔を併合し強盛化。天寶四載、歸義は孫鳳迦異を朝貢に遣わした。
  • 天寶九載、雲南太守張虔陀の非礼に閣羅鳳(歸義の子)が怒り虔陀を殺害。翌年、鮮于仲通の討伐は大敗し、閣羅鳳は北の吐蕃に臣属し「東帝」「贊普鐘」の号を受けた(天寶十一載)。
  • 天寶十二載、楊国忠が李宓に十余万を発したが大和城北で大敗、死者は八九割に及んだ。安禄山の乱に乗じ閣羅鳳は巂州・会同軍を奪った。
  • 大暦十四年、閣羅鳳の孫(子の鳳迦異は先に死去)異牟尋が立った。相の鄭回(もと相州の儒者で虜となり教育を任された)の説得もあり、吐蕃の苛斂に厭いた異牟尋は貞元四年頃から韋皋を通じ内附を模索、貞元九年、三方から使者を発し帰順を申し出た。
  • 韋皋は巡官崔佐時を南詔へ送り、点蒼山神祠での盟約(貞元十年)に至り、吐蕃から与えられた金印を返上させ「南詔」の旧名回復を認めた。異牟尋は吐蕃への出兵要請に乗じ神川で吐蕃を大破、鉄橋を断って唐へ捷報を送った。韋皋の上奏によれば城塁十六を奪い王五人を擒え衆十余万を降した。祠部郎中袁滋が冊命使として派され、黄金の「貞元冊南詔印」が賜られた。
  • 元和四年、異牟尋の子驃信苴蒙閣勧が南詔王に冊立され「元和冊南詔印」が鋳造された。太和三年、杜元穎の失政に乗じ南詔が邛州・成都府周辺を侵したが、翌年謝罪。以後、開成・会昌年間も朝貢が続いた。

驃国

  • 永昌故郡の南二千余里。王姓は困没長、名は摩羅惹。国都の羅城は塼造りで周囲百六十里、仏寺百余区を有し金銀・丹彩で飾られた。刑は軽く、七歳で出家し二十歳までに悟らねば還俗する習わし。蚕を飼わず絹を用いない(殺生を避けるため)。
  • 貞元八年、王の弟悉利移が南詔経由で来朝し、仏典に基づく楽曲十曲と楽工三十五人を献じた。

史論

  • 史臣は言う。禹が九州を画し周が六服を分けた華夏の地は方七千里に過ぎないが、天下は広大でそこに住む民は数え切れない。西南の蛮夷は言語も嗜欲も異なるが、風を望んで遠く朝貢する。己の不徳を憂うべきで、人が来ないことを憂うべきではないとし、貞觀・開元の盛世に朝貢が多かったことをその証とする。

  • 五方の気質はそれぞれ異なり、南海の果てに蛮と戎がある。我を悪めば叛き、我を好めば通じる。徳を修めねばならず、それによって風化を仰がせるべきだと結ぶ。