舊唐書卷一百九十六 徐文遠・陸德明・曹憲・歐陽詢・朱子奢・張士衡・賈公彥・張後胤・蓋文達・谷那律・蕭德言・許叔牙・敬播・劉伯莊・秦景通・羅道琮

  • 儒学は本来司徒の官に発し、君臣を正し貴賤を明らかにし教化を美しくし風俗を移すのに最も適う。前代の哲王は儒術の士を用い、漢の宰相はみな一経に精通し、朝廷の疑事は経を引いて決した。しかし近代は文を重んじ儒を軽んじ法律を交えたため儒道は衰え理国も前古に劣るようになった。隋の乱世で先代の旧章・遺訓は地に掃われた。
  • 高祖は太原挙兵から間もなく儒臣を好み、義寧三年五月、国子学生七十二員(三品以上の子孫)、太学生百四十員(五品以上)、四門学生百三十員(七品以上)、上郡学六十員・中郡五十員・下郡四十員、上県学四十員・中県三十員・下県二十員を定めた。武德元年、皇族子孫・功臣子弟のため秘書外省に小学を別立した。
  • 武德二年の詔では、周公・孔子の功徳を称え国子学に周公廟・孔子廟各一所を建て四時に祭るよう命じ、その子孫を求めて爵土を加えることとした。これにより学者が集まり儒教が興った。
  • 武德三年、太宗(当時秦王)は東夏平定後、秦府に文学館を開き杜如晦ら十八人を学士として五品の食禄を与え三番交代で宿直させた。即位後は正殿の左に弘文学館を置き虞世南・褚亮・姚思廉らを学士とし、政務の合間に経義を講じさせた。功臣三品以上の子孫も弘文館学士に召した。
  • 貞觀二年、周公を先聖とするのを止め孔子廟堂を国学に立て孔子を先聖、顔子を先師とし、天下の儒士を学官に登用した。国学生で一大経以上に通じた者は官吏に署せられ、国学の学舎千二百間を増築、太学・四門博士も増員し書算の博士・学生あわせ3260員に及んだ。玄武門屯営の飛騎にも経業を授け貢挙の道を開いた。高麗・百済・新羅・高昌・吐蕃らの酋長も子弟を国学に送り、講筵に列した者は八千余人に及び、儒学の盛んなことは古今未曾有であった。
  • 太宗は経籍の文字の誤りを正すため顏師古に《五經》を考定させ天下に頒し、また章句の繁雑を正すため孔穎達らに《五經正義》百七十卷を撰させ天下に伝習させた。
  • 貞觀十四年、梁の皇侃・褚仲都、周の熊安生・沈重、陳の沈文阿・周弘正・張譏、隋の何妥・劉炫ら前代の名儒の子孫を訪ね名を奏上するよう詔した。二十一年には左丘明ら二十一人の儒者を孔子廟堂に顔子と共に配享するよう詔した。
  • 高宗の代は政教が衰え儒術より文吏を重んじた。則天臨朝の頃は国子祭酒を諸王・駙馬都尉に授け、貞觀の旧事に准えつつも実質は伴わず、博士・助教も名ばかりで学校は二十年で頽廃した。玄宗は東宮時代から太学に幸して講論を開き、即位後は州県・百官に経通の士を薦めるよう詔し、集賢院を置いて学者を招集した。以上を《儒學篇》とする。

徐文遠

  • 徐文遠は洛州偃師の人、陳司空徐孝嗣の玄孫、その先は東海より移り住んだ。父の徹は梁の秘書郎で元帝の女安昌公主を娶り文遠を生んだ。江陵陥落で長安に虜われ家は貧しく、兄の休が書を売って生計を立てる中、文遠は書肆で日々書を読み《五經》を博覧、とりわけ《春秋左氏傳》に精通した。大儒沈重の講義を数日で辞したことを問われ「その説くところは紙上の言に過ぎず既に暗誦している、奥義に至ってはむしろ及ばぬようだ」と答え、沈重に十余度議論を挑まれ深く感嘆された。
  • 竇威・楊玄感・李密がみなその教えを受けた。開皇中、太学博士を歴任し漢王楊諒に《孝經》《禮記》を講じたが、諒の反乱に連座し除名された。大業初、礼部侍郎許善心の推挙で国子博士に抜擢され、当時「文遠の左氏、褚徽の礼、魯達の詩、陸德明の易」がそれぞれ第一と称された。文遠は新説を立て先儒の異論の是非を定めた上で諸家を詰駁し博弁で聴く者を飽きさせなかった。
  • 越王侗により国子祭酒とされたが、洛陽飢饉の折に城外で樵採中、李密の軍に捕らえられた。密が北面して弟子の礼を執ると、文遠は「将軍が伊尹・霍光のごとく絶を継ぎ傾きを扶けるなら老骨でも尽力する、王莽・董卓のごとく危に乗じるなら何もできぬ」と諭し、密は「化及を討ち冤を雪いだ後に凱旋し朝見する」との本意を告げた。
  • 化及討伐から戻ると王世充が元文都らを殺し専権していた。密が再び問うと文遠は「世充も門人だが残忍で狭量、必ず異図がある、彼を破らねば朝見できぬ」と答え、密に軍略の明を称えられた。
  • 密の敗北後、東都に戻ると世充から廩食を受け、文遠は先に拝礼した。李密には長揖のみで王世充には敬礼する理由を問われ「李密は君子ゆえ酈生の揖を受け入れられる、王公は小人ゆえ故人を殺す義がある、時を見て動くのみ」と答えた。世充僭号後も国子博士とされ、後に樵採中に羅士信に捕らえられ長安に送られてもなお国子博士を授けられた。
  • 武德六年、高祖が国学に幸し釈奠を観た際、文遠が《春秋》の題を発すると諸儒の難問が蜂起したがことごとく応じきった。東莞縣男に封ぜられ、74歳で在官のまま卒した。《左傳音》三卷・《義疏》六十卷を撰した。孫の徐有功には別に伝がある。

陸德明

  • 陸德明は蘇州吳の人。初め周弘正に学び玄理を善く語った。陳の大建中、弱冠で太子招集の名儒講論に参じ、国子祭酒徐克の縦横の弁に独り対抗し満朝に賞嘆された。始興王國左常侍を初任とし国子助教に遷った。陳滅亡後は郷里に帰り、隋煬帝の代に秘書学士となった。大業中、魯達・孔褒と共に難問対応にあたり並ぶ者がなく国子助教を授けられた。王世充僭号の際、その子の師とされ束脩の礼を行おうとしたが、德明はこれを恥じ巴豆散を服し下痢のふりをして拒み、成臯に病と称して逃れた。
  • 世充平定後、太宗に秦府文学館学士として召され中山王承乾に授業した。太学博士に補され、高祖臨席の釈奠で徐文遠の《孝經》・沙門惠乘の《波若經》・道士劉進喜の《老子》講義を難詰し、それぞれの宗旨に基づいて論破し高祖に帛五十匹を賜った。
  • 貞觀初、国子博士・吳縣男。まもなく卒した。《經典釋文》三十卷・《老子疏》十五卷・《易疏》二十卷を撰し世に行われた。太宗は後にその《經典釋文》を読み感嘆し家に束帛二百段を賜った。子の敦信は龍朔中に左侍極・同東西臺三品に至った。

曹憲

  • 曹憲は揚州江都の人。隋の秘書学士として数百人の弟子を教え、公卿以下も多く受業した。漢の杜林・衛宏以後絶えていた古文の学を憲が復興した。大業中、煬帝の命で諸学者と《桂苑珠叢》百卷を撰し博識を称され、張揖の《博雅》に訓注して十卷とし秘閣に蔵させた。
  • 貞觀中、揚州長史李襲譽の推挙で弘文館学士に召されたが老齢を理由に固辞し、使者が家に赴いて朝散大夫を授けるという栄誉を受けた。太宗は難字を憲に問い明快な音訓と考証を得て感嘆した。105歳で卒した。《文選音義》は当時重んじられ、江淮の《文選》学は憲に始まり、許淹・李善・公孫羅が相継いで教授し、その学は大いに興った。

附 許淹

  • 許淹は潤州句容の人。若くして出家しのち還俗、博識で訓詁に精通し《文選音》十卷を撰した。

附 李善

  • 李善は揚州江都の人。方雅清勁で士君子の風があった。明慶中、太子内率府録事参軍・崇賢館直学士を歴任し沛王侍讀を兼ねた。《文選》に注解を加え六十卷にまとめ表上し絹百二十匹を賜り秘閣に蔵された。潞王府記室参軍・秘書郎を経て乾封中、経城令に出た。賀蘭敏之との交わりに連座して姚州に流されたが赦免後は教授を業とし遠方から弟子が集まった。《漢書辯惑》三十卷も撰した。載初元年に卒した。子の邕も名を知られた。

附 公孫羅

  • 公孫羅は江都の人。沛王府参軍・無錫縣丞を歴任し《文選音義》十卷を撰し世に行われた。

歐陽詢

  • 歐陽詢は潭州臨湘の人、陳大司空歐陽頠の孫。父の紇は陳廣州刺史で謀反により誅されたが、詢は連座を免れた。陳尚書令江總が縁により養育し書計を教えた。容貌は醜かったが聡悟絶倫で読書は数行を一度に読み、経史を博覧しとりわけ《三史》に精通した。隋の太常博士を経て高祖の微賤の頃から賓客に招かれ、即位後は給事中に累遷した。
  • 詢は初め王羲之の書を学びのちに変体し険勁な筆力で一時の絶と称された。人々はその尺牘を楷範とし、高麗も重んじ使者を遣わして求めた。高祖は「詢の書名が夷狄まで伝わったか、その筆跡を見て詢を魁梧の体格と思っているだろうな」と笑った。武德七年、裴矩・陳叔達と《藝文類聚》百卷を撰し帛二百段を賜った。貞觀初、太子率更令・弘文館学士・渤海縣男。80余歳で卒した。

歐陽通

  • 詢の子通は幼くして父を失い、母徐氏が父の書跡を教えるため銭を与える際「お前の父の書跡を買う代金」と偽って学ばせた。通は名声を慕い昼夜精励し詢に次ぐ書名を得た。儀鳳中、中書舎人に累遷。母の喪に礼を過ぎるほど哀毀し、起復後も入朝には徒跣で皇城門外まで歩き、宿直では席藁を敷き、公事以外は口をきかず、帰宅すれば喪服のまま慟哭を絶やさなかった。武德以来、起復後に礼に適う哀戚を保った者は通に並ぶ者がなかった。母の喪が明けなくとも四年間廬に籠り、家人が冬に密かに敷いた氈絮に気づくと激怒して取り除かせた。
  • 五度昇進し垂拱中に殿中監・渤海子。天授元年、夏官尚書。二年、司禮卿・判納言事に転じ、在相わずか月余りで鳳閣舍人張嘉福らの武承嗣立太子請願に、岑長倩と共に固く反対し武氏の意に逆らったため酷吏に陥れられ誅殺された。神龍初、官爵を追復された。

朱子奢

  • 朱子奢は蘇州吳の人。若くして郷人顧彪に《春秋左氏傳》を学び、のち子史を博く見て文才があった。隋大業中、秘書学士に直し、天下大乱に職を辞して郷里に帰り杜伏威に付いた。武德四年、伏威に従い入朝し国子助教を授けられた。貞觀初、高麗・百済が新羅を攻め数年戦が続いた際、新羅の急を受け員外散騎侍郎として使者に遣わされ三国の憾みを解いた。東夷はその威儀を大いに敬服し三国王はみな謝罪の表を上げた。
  • 出使に際し太宗は「海夷は学問を重んじる、大国の使として束脩を受けず講説せよ、成功すれば中書舎人として遇する」と告げた。子奢は夷情を悦ばせようと《春秋左傳》を講じ美女の贈り物も受け取ってしまい、帰還後太宗に叱責されたがその才を惜しみ深く咎めず散官のまま国子学に直させた。のち諫議大夫・弘文館学士、国子司業を歴任してなお学士を兼ねた。子奢は風流蘊藉で滑稽味もあり文義に富み、しばしば宴に召され議論を任された。(貞觀)十五年に卒した。

張士衡

  • 張士衡は瀛州樂壽の人。父の之慶は齊国子助教。士衡は九歳で母を喪い哀慕は礼を過ぎた。父の友人で齊国博士劉軌思はこれを見るたび涙し、父に「昔の張曾子も及ばぬだろう、成就させるべき」と語った。長じて軌思に《毛詩》《周禮》を、熊安生・劉焯に《禮記》を学びいずれも大義を極め、後に《五經》を遍く講じとりわけ《三禮》に長じた。隋の餘杭令を経て老齢で郷里に帰った。
  • 貞觀中、幽州都督燕王靈夔が玄纁束帛の礼をもって家に迎え北面して師事し、東宮の承乾もこれに旌命を加えた。洛陽宮での謁見で太宗は殿に上げ食を賜り朝散大夫・崇賢館学士を授けた。承乾に北齊滅亡の由来を問われ「後主が悖虐で高阿那瑰・駱提婆・韓長鸞ら奴僕下才を信任し忠良を殺し骨肉を疎んじ奢靡を極めたため、周師来襲に民が従わず滅んだ」と答えた。布施の果報を問われては「仏に事えるは清浄無欲・仁恕の心にあり、貪婪驕虐のままでは財を傾けても禍は救えぬ、善悪の応報は影が形に従うが如く儒書にも説かれる、人君・人臣たる者は仁慈忠孝を尽くすべき」と答えた。承乾廃黜の後は帰郷を許された。(貞觀)十九年に卒した。士衡の礼学を継ぎ最も名を挙げたのは賈公彥であった。

賈公彥

  • 賈公彥は洺州永年の人。永徽中、太学博士に至り《周禮義疏》五十卷・《儀禮義疏》四十卷を撰した。子の大隱は礼部侍郎に至った。

附 李玄植

  • 趙州の李玄植は公彥に《三禮》を学び《三禮音義》を撰し世に行われた。玄植はまた王德韶に《春秋左氏傳》、齊威に《毛詩》を学び漢史・老荘諸子にも通じた。貞觀中、太子文學・弘文館直学士に累遷。高宗の代、御前で道士・沙門と経義を講じ美しい弁論で規諷を申し帝に厚く遇された。のち事に連座し汜水令に左遷され在官のまま卒した。

張後胤

  • 張後胤は蘇州崑山の人。父の中は儒学に長じ隋漢王楊諒が并州を鎮した際に博士に招かれた。後胤も父に従い并州にあり学行で知られた。高祖が太原を鎮する頃、賓館に招かれ太宗が《春秋左氏傳》を学んだ。武德中、燕王諮議参軍を歴任。
  • 貞觀中、後胤は「陛下が太原時代『隋の命運が尽きればどの氏族が天下を得るか』と問われた際『李姓が必ず得る、公の徳業は天下の心を集めている』と答えた、これぞ天命を早く見抜いた証」と上言した。太宗は記憶していると応じ、宴を賜り「今の弟子は如何」と問うと後胤は「孔子は三千の徒を領したが達者に子男の位を得た者はいない、臣は一人を輔けて万乗の主とした、功は先聖に勝る」と答え太宗を大いに悦ばせ良馬五匹を賜り燕王府司馬に、のち国子祭酒・散騎常侍に至った。永徽初、致仕を願い金紫光祿大夫を加えられ職事同様の給賜を受けた。卒して礼部侍郎を贈られ昭陵に陪葬された。

蓋文達

  • 蓋文達は冀州信都の人。経史に博く《三傳》に明るく、方雅で美貌、士君子の風があった。刺史竇抗が大儒劉焯・劉軌思・孔穎達らを集めて問難させた際、文達も加わりことごとく諸儒の意表を突き、抗に「誰に学んだか」と問われた劉焯は「この者は生まれつき賢く、私は問いが多いだけの弟子筆頭にすぎぬ」と答え、抗は「氷は水より生まれて水より寒し」と評した。
  • 武德中、国子助教に累任。太宗が藩にあった頃、文学館直学士に召された。貞觀十年、諫議大夫兼弘文館学士。十三年、国子司業。まもなく蜀王師を拝したが王の罪に連座し免ぜられた。十八年、崇賢館学士を授けられまもなく卒した。宗人の蓋文懿も儒業で知られ当時「二蓋」と称された。

附 蓋文懿

  • 蓋文懿は貝州宋城の人。武德初、国子助教を歴任。高祖が秘書省に別立した王公子弟の学で博士となった。《毛詩》の講義で公卿が集まり問難を交わし、風雅の詩人の趣を大いに発揮した。貞觀中、国子博士のまま卒した。

谷那律

  • 谷那律は魏州昌樂の人。貞觀中、国子博士に累補され黃門侍郎褚遂良に「九経庫」と称された。まもなく諫議大夫兼弘文館学士。太宗の狩猟に随行中、雨に遭い「油衣はどうすれば漏れぬか」と問われ「瓦で作れば漏れぬ」と答え、暗に狩猟を諫めた。太宗は悦び帛二百段を賜った。永徽初、在官のまま卒した。

蕭德言

  • 蕭德言は雍州長安の人、齊尚書左僕射蕭思話の玄孫。本籍は蘭陵、陳滅亡で関中に移った。祖父の介は梁の侍中・都官尚書、父の引は陳の吏部侍郎でともに名があった。德言は経史に博く《春秋左氏傳》に精通し文を好んだ。貞觀中、著作郎兼弘文館学士。
  • 晩年ますます学に篤く昼夜倦むことなく、《五經》を開くたび束帯し手を清め端座した。妻子に「なぜそこまで」と問われ「先聖の言を敬うのに何を憚ろうか」と答えた。高宗(当時晉王)に経を授け講じ、東宮に上がってからも侍讀を兼ねた。老齢を理由に致仕を願うと太宗は許さず、儒林の中でも顏回・閔子騫は寿を全うせず子游・子夏の徳も学に及ばなかったこと、德言が幼くして立派で隋末の乱で儒道が地に落ちた中でも学を極めたことを称える書を賜った。
  • まもなく封陽縣侯に叙され、(貞觀)十七年、秘書少監。両宮から厚い礼遇を受けた。二十三年、たびたび致仕を願い許された。高宗即位後、師傅の恩により銀青光祿大夫を加えられた。永徽五年、97歳で家に卒し高宗は朝を輟め太常卿を贈った。文集三十卷。曾孫の蕭至忠には別に伝がある。

許叔牙

  • 許叔牙は潤州句容の人。若くして《毛詩》《禮記》に精通し諷詠を善くした。貞觀初、晉王文學兼侍讀を歴任し太常博士に遷った。東宮昇任後は朝散大夫を加えられ太子洗馬兼崇賢館学士・侍讀を兼ねた。《毛詩纂義》十卷を撰し皇太子に献じ帛百段を賜り司経局に写本が付された。御史大夫高智周は「詩を語ろうとする者は必ずまずこの書を読むべき」と評した。(貞觀)二十三年に卒した。子の子儒。

許子儒

  • 叔牙の子子儒も学芸で知られた。長壽中、天官侍郎・弘文館学士に至った。選部にあって鑑識に意を用いず令史句直に一任し、除官のたびただ高枕して「句直がうまく配してくれる」と言うのみで、任命の順序は乱れ物議を醸した。撰した《史記》註は未完のまま終わった。

敬播

  • 敬播は蒲州河東の人。貞觀初、進士に及第。秘書内省で顏師古・孔穎達を佐け《隋史》を修めるよう詔され太子校書を授けられた。史書完成後は著作郎兼修國史となり、給事中許敬宗と《高祖》《太宗實錄》創業から貞觀十四年までの四十卷を撰し帛五百段を賜った。太宗が高麗を破った際に戦地の山を「駐蹕」と名付けたのを見て「聖人は天地と徳を合わせる、駐蹕の名は鑾輿が再び東に出ないことを示す」と語り、その通りとなった。
  • 梁国公房玄齡は播を「陳寿の流」と称し良史の才を認め、顏師古注《漢書》の繁雑を播に要約させ四十卷にまとめ世に伝えた。実録撰修の功で太子司議郎に遷り、新設のこの官は清望とされ中書令馬周も「資品が高すぎて自分は就けなかった」と嘆いた。《晉書》の撰にも令狐德棻・陽仁卿・李嚴らと共に類を総括した。
  • 刑部が謀反大逆の罪を父子連座死・兄弟流罪から重罰へ改めるよう奏した際、播は「昆弟の情は父子と理が異なり、高官の廕も子孫に及ぶが昆弟には及ばぬ、廕を受けぬ者に罪だけ及ぼすのは礼情に背く」と反対し詔はこれに従った。
  • 永徽初、著作郎。許敬宗らと《西域圖》を撰した。のち諫議大夫・給事中を歴任しなお修國史を兼ね、《太宗實錄》貞觀十五年から二十三年までの二十卷を撰し帛三百段を賜った。のち事に連座し越州都督府長史に出た。龍朔三年、在官のまま卒した。《隋略》二十卷も著した。

劉伯莊

  • 劉伯莊は徐州彭城の人。貞觀中、国子助教に累任し、舅の太学博士侯孝遵と並んで弘文館学士となり当代の栄とされた。国子博士に遷り、のち許敬宗らと《文思博要》《文館詞林》の撰にも参じた。龍朔中、崇賢館学士を兼ねた。《史記音義》《史記地名》《漢書音義》各二十卷を撰し世に行われた。子の之宏も父業を継ぎ則天の代に著作郎兼修國史に累遷、相王府司馬で卒し睿宗即位後に旧臣として秘書少監を贈られた。

秦景通

  • 秦景通は常州晉陵の人。弟の暐と共に《漢書》に精通し、当時《漢書》を学ぶ者はみな二人を宗とし、景通を「大秦君」、暐を「小秦君」と称し、その指導を経ぬ者は「師匠なく取るに足らず」とされた。景通は貞觀中、太子洗馬兼崇賢館学士に累遷した。《漢書》学ではほかに劉納言も当代の宗匠であった。
  • 納言は乾封中、都水監主簿を歴任し沛王李賢に《漢書》を授け、賢の立太子後は太子洗馬兼侍讀に累遷した。《俳諧集》十五卷を撰し太子に献じたが、東宮廃黜の際に高宗の怒りを買い「劉納言は経史に侍りながら匡賛せず滑稽の説を進めて儲君の徳を損なった、生を惜しみ極刑は科さぬが除名する」との詔が下された。のちさらに事に連座し振州に流され死んだ。

羅道琮

  • 羅道琮は蒲州虞鄕の人。祖父の順は武德初、興州刺史。学業に勤め慷慨で節義があった。貞觀末、上書が旨に逆らい嶺表に流された。同じく流された者が荊襄間で病死する際「異郷に骨を委ねるのが恨み」と泣いたのに対し道琮は「生きて帰れれば独り帰らず必ず共に連れ帰る」と誓い路傍に葬って去った。歳余り後、赦免されて殯所に戻ると大雨で柩の所在が分からなくなったが、道琮が祭りを設け慟哭して霊験を求めると路傍の水が湧き沸き、「そこが正しければもう一度沸け」と念じるとまた沸き、その水中から遺骸を得て背負い帰郷した。人々はその誠意が感応したと称えた。道琮はまもなく明經に及第し、高宗末、太学博士に至り太学助教康國安・道士李榮らと講論を交わし時に称された。まもなく卒した。