出自と隋末の分裂
- 回紇はもと匈奴の末裔で、後魏の頃は鉄勒部落と呼ばれた。体は小柄だが気性は勇猛で、高車に依托し突厥に臣属して「特勒」と称された。君長を持たず水草を追って移住し、寇掠を生業とした。突厥の東西征討には常にその兵力が使われ、北方統御の要となっていた。
- 隋の開皇末、晋王楊広が突厥討伐で歩迦可汗を大破すると特勒諸部は分散した。大業元年、突厥の処羅可汗が特勒諸部を重く搾取し、さらに薛延陀を疑って渠帥数百人を誅殺したため、特勒はついに叛いた。
- 特勒はもと仆骨・同羅・回紇・拔野古・覆羅の諸部に分かれ「俟斤」と号したが、のち回紇と称するようになった。薛延陀の北境、娑陵水のほとりに拠り、長安から六千九百里、兵五万・人口十万を数えた。
貞觀期、菩薩の興隆
- 特健俟斤の子・菩薩は部落に賢者と推されて立った。貞觀初、菩薩は薛延陀とともに突厥北辺を侵し、突厥頡利可汗の子・欲谷設が十万騎で討ったが、菩薩は五千騎でこれを馬鬣山に破り、天山まで追撃してさらに大破し、回紇は大いに振るった。薛延陀に帰属し、菩薩は「活頡利発」と号された。
- 菩薩は勁勇で膽気に富み、戦陣では常に士卒の先頭に立ち、少数で多数を制した。母の烏羅渾は訴訟を掌り公正で、部内はよく治まった。回紇の隆盛は菩薩の代に始まる。
- 貞觀中、頡利ら突厥諸可汗が擒えられた後は菩薩・薛延陀の二勢力が北方で強大だった。太宗は北突厥の莫賀咄を可汗に冊立し回紇・仆骨・同羅・思結・阿跌等を統べさせたが、回紇の酋帥吐迷度は諸部とともに薛延陀の多彌可汗を大破し、その地を併合した。
瀚海都督府の設置と唐への服属
- 貞觀二十年、回紇は賀蘭山を越え黄河に臨み入貢、薛延陀撃破の功により内殿で宴を賜った。太宗は霊武に行幸してその降款を受け、回鶻以南に郵駅を置き北方を管掌させることを許した。太宗は六府七州を置き、府に都督、州に刺史を任じた。
- 回紇部を瀚海府とし、俟利発の吐迷度を懐化大将軍・瀚海都督とした(吐迷度はすでに自ら可汗を称し、官号はすべて突厥の故事に倣った)。
- 多覧を燕然府、仆骨を金徽府、拔野古を幽陵府、同羅を亀林府、思結を盧山府、渾都を臯蘭州、斛薩を高闕州、阿跌を鶏田州、契苾を榆渓州、跌結を鶏鹿州、阿布思を帰林州、白霫を寘顔州とした。
- さらに回紇の西北の結骨を堅昆府、北の骨利幹を玄闕州、東北の俱羅勃を燭龍州とし、故単于台に燕然都護府を置いて統轄させた。
- 貞觀二十二年、吐迷度は甥の烏紇に殺された。烏紇は叔母を犯した末、俱陸莫賀達幹俱羅勃と謀り吐迷度を弑して車鼻に帰そうとしたもの。燕然副都護元礼臣は烏紇を「都督に任ずる」と偽って呼び寄せ、これを擒えて斬った。
- 太宗は回紇部落の離反を恐れ、兵部尚書崔敦礼を派して安撫させ、吐迷度に左衛大将軍を贈り、その子・翊と婆閏に瀚海都督などの官を継がせた。俱羅勃は入朝し太宗の下に留められた。西突厥の阿史那賀魯には多くの部を統べさせたが、回紇は西属を拒んだ。
高宗期の外征協力
- 永徽二年、賀魯が北庭を破ると、梁建方・契苾何力が回紇五万騎とともに賀魯を大破し北庭を回復。顕慶元年、賀魯が再び侵すと程知節・蘇定方・任雅相・蕭嗣業らが回紇とともに陰山・金牙山で賀魯を破り、西は耶羅川に至った。賀魯は石国へ逃れたが、婆閏は蘇定方とともに追撃しこれを捕らえ洛陽へ送った。婆閏は右衛大将軍・瀚海都督を加えられた。
- 永徽六年、回鶻は蕭嗣業に従い高麗討伐に出兵。龍朔中、婆閏死し妹の比粟毒が回鶻を主領、同羅・仆固とともに辺境を犯したが鄭仁泰に討たれ敗走した。永隆中は独解支、嗣聖中は伏帝匐、開元中は承宗・伏帝難が相次いで酋長となり、いずれも都督号を受けて左殺・右殺で諸部を分管した。
- 開元中、回鶻は次第に強盛化し涼州都督王君掞を殺害、安西諸国の長安路を絶った。玄宗は郭知運らに討伐させ、回鶻は烏徳健山に退いた。
- 回鶻には九姓部落を核とする十一都督があった:藥羅葛(可汗の姓)・胡咄葛・咄羅勿・貊歌息訖・阿勿嘀・葛薩・斛嗢素・藥勿葛・奚耶勿の九姓に、拔悉密・葛邏禄を破って得た各一部を加え計十一部落とした。
天寶末〜至徳、安史の乱への援軍
- 天寶初、酋長の葉護頡利吐発が入朝し奉義王に封ぜられた。天寶三載、拔悉密を破り自ら骨咄祿毗伽闕可汗を称し、唐は懐仁可汗に冊立した。
- 至徳元載七月、粛宗が霊武で即位すると、邠王の子承采を燉煌王に封じ石定番を回紇に遣わし和親と征兵を求めた。可汗は娘を承采に嫁がせ、公主を毗伽公主とした。至徳二載、承采は宗正卿となり回紇公主を妃とした。回紇は太子葉護に将帝德ら四千余の兵を率いさせ討逆を助け、粛宗は元帥広平王(のちの代宗)と兄弟の約を結ばせた。
- 郭子儀のもとに合流した回紇軍は香積寺・新店の戦いで賊軍を大破し、斬首十余万、伏屍三十里に及んだ。西京・東京の回復に功があり、東京では市街の三日間の略奪を許された。葉護には忠義王・司空が授けられ、毎年絹二万匹を朔方軍へ送ることが約された。
- 乾元元年、回紇は多亥阿波ら使者を派遣し肅宗の幼女を寧国公主として英武威遠毗伽可汗に降嫁させた。冊命使の李瑀は可汗の非礼な儀礼要求を退け、可汗が起立して詔を奉じるに至った経緯が詳しく記される。回紇は王子骨啜特勒・宰相帝德ら驍将三千を派し討逆を助けた。
- 乾元二年、毗伽闕可汗が死し少子の登裏可汗が立った。寧国公主は殉葬を拒み、無子のまま帰国した。
寶応〜永泰、登裏可汗の南下と仆固懐恩の乱
- 寶応元年、代宗即位に際し史朝義がなお河洛にあったため中使劉清潭が回紇に征兵を求めたが、史朝義の誘いで回紇は唐の内乱を疑い南下、辱めを与えた。薬子昂が説得にあたり、懐恩の女が可敦であったことから懐恩を介して協力を取り付け、雍王適を元帥として回紇と共に東京を回復、史朝義を平州石城県で梟首した。
- 回紇軍は東京で聖善寺・白馬寺を焼き死者万を数えるなど暴虐を働き、代宗は登裏頡咄登密施含俱録英義建功毗伽可汗の号を加冊した。
- のち仆固懐恩が叛き吐蕃・回紇等の諸族を誘い奉天・醴泉・鳳翔・同州を侵したが、懐恩の死後、回紇の羅達幹らは郭子儀に降った。子儀は単騎で赴き旧知の誠意を示し、両軍は盟を結んで吐蕃を撃退(涇州霊台県赤山嶺の戦いで十余万を破り五万級を斬った)。
大暦、市場をめぐる摩擦と辺境の侵寇
- 大暦六年、回紇は鴻臚寺を勝手に出て坊市で掠奪し金光門・朱雀門を犯した。七年、長安令邵説を襲い馬を奪った。八年、馬絹交易(馬一匹=絹四十匹)で朝廷を苦しめた。十年、東市で人を刺した回紇人の首領赤心が獄を破って囚人を奪還。十三年、太原を侵し鮑防を破ったが張光晟が羊武谷で撃退した。
徳宗期、頓莫賀達幹の簒奪と「回鶻」への改称
- 徳宗即位時、可汗移地健は九姓胡の煽動で南下を図ったが、宰相頓莫賀達幹が諫めて聞かれず、可汗を撃殺し九姓胡二千人も殺した。頓莫賀は合骨咄祿毗伽可汗を自称し、武義成功可汗に冊立された。
- 貞元三年、和親を請い、四年に鹹安公主(当初は太和公主として記されるが本文では鹹安公主)が降嫁。貞元五年、汨咄祿長寿天親毗伽可汗薨。
- 貞元六年、忠貞可汗が弟に殺され簒立されるも国人がその纂者を殺し忠貞の子(十六、七歳)を立てた。大相頡幹迦斯が帰国しこれを追認、可汗は子として仕える礼を執った。
- 北庭・安西は回紇に附庸していたが、その苛斂と沙陀部落への抄掠により葛祿・白服突厥が離反、吐蕃に誘われて北庭を攻めた。頡幹迦斯は再三敗れ、北庭は貞元年間に吐蕃へ降り、節度使楊襲古は頡幹迦斯に殺された。
元和以降、「回鶻」表記と太和公主降嫁
- 貞元十一年、騰裏邏羽録没密施合祿胡毗迦懐信可汗を冊立。元和四年、藹德曷裏祿没弭施合密毗迦可汗が「回紇」を「回鶻」(鶻のように速いの意)に改称。
- 長慶元年、毗迦保義可汗薨。回鶻宰相・都督・公主・摩尼僧ら五百七十三人が入朝、穆宗の妹を太和公主として降嫁させることが定まり、胡証・李憲・殷侑らが送使となった。
- 太和年間も朝貢・馬価絹の授受が続いた。太和七年、薩特勒可汗が薨じ、その後開成初年に相の安允合・特勒柴草の簒奪未遂、掘羅勿による薩特勒可汗殺害と馺特勒擁立、さらに将軍句録末賀が黠戛斯十万騎を引き入れ回鶻城を陥落させるという内紛が続き、回鶻は瓦解した。
会昌、烏介可汗の南来と滅亡
- 相の馺職は甥の龐特勒らを率い葛邏祿・吐蕃・安西へ分散、近可汗牙十三部は特勒烏介を可汗として唐に南来附属した。
- 黠戛斯が太和公主を得て達幹十人に護送させたが、烏介はこれを殺し太和公主を伴い南下、天徳界に至った。回鶻内部でも赤心・仆固らが烏介に服さず、烏介は幽州節度使張仲武に那頡(赤心方)を討たれ大敗した。
- 会昌二年〜三年、烏介の残余は幽州・振武へ相次いで降った(特勒龐俱遮・阿敦寧・回鶻公主密羯可敦・外相諸洛固阿跌ら三万余、特勒霡沒斯・阿歴支・習勿啜らは李姓を賜り思忠・思貞・思恵・思恩と改名)。
- 会昌三年、劉沔が烏介の本営を急襲、烏介は敗走。豊州刺史石雄は太和公主を迎え帰国させた。烏介はのち相の逸隠啜に殺され、弟の遏撚が可汗となるも衰微を続けた。
- 大中元年〜二年、張仲武の奚討伐や室韋への分散を経て、遏撚は西走し回鶻諸部は黠戛斯に磧北へ収容された。残余は安西の龐勒(のち可汗を自称し磧西諸城を領した)を頼み、甘州に拠った後裔は往時の盛勢を失い、以後は朝貢のみを続けた。
史論
- 史臣は言う。西羌・北狄は三代以来つねに患いだったが、蔡邕は「辺陲の患いは手足の疥、中国の困窮は胸背の疽」と評した。突厥は隋を滅ぼす一因となった。太宗が突厥・延陀を平らげて以降、回紇が興り、太宗は霊武で降を受け、州府と名爵で羈縻した。開元の盛時には四夷が向化したが、天寶末の内乱以降、肅宗・代宗は回紇を誘って両京・河朔を回復した中興の功は大きいものの、民の膏血は尽き、法令は弛み、恥を忍んで和親するほかなくなった。仆固懐恩の叛は最も危うかったが郭子儀の用兵で免れた。回紇は唐に対する功も害も最大であり、勢いの盛衰とともに消長し、僖宗・昭宗の代には黄巣・朱全忠の乱と並び「胸背の疽」となったとする。「手疥背疽」の評は確論であると結ぶ。
賛
- 土徳の初め盛んなりしとき、家々は褒賞されるほどであった。朝綱がゆるむや辺境に戦禍が興る。安史の乱に唐は回紇の功に恃んだが、その代償として民は苦しみ国力を損なった。華夷の盛衰は織物のように移ろい、彼が悪を長じたとき我は徳を修めるべきだとし、疽疥の教えは百代にわたる戒めであるとする。