舊唐書卷一百九十六上 吐蕃上
出自と風俗
- 吐蕃は長安の西八千里、漢代の西羌の地にある。南涼の禿発利鹿孤の後裔とも言われる。利鹿孤の子・樊尼は父の死後、叔父の傉檀に安西将軍とされたが、後魏神瑞元年に傉檀が西秦の乞仏熾盤に滅ぼされると、樊尼は余衆を集めて沮渠蒙遜に投じ臨松太守となり、蒙遜滅亡後は黄河を渡り積石を越えて羌中に建国、千里の地を開いた。禿発を国号としたが訛って「吐蕃」と呼ばれるようになり、周・隋を経て諸羌を隔て中国と通じなかった。
- 王を「賛普」、宰相を大論・小論と称し、文字はなく刻木結縄で約とした。金箭で徴兵し、烽燧で警報を伝えた。刑は厳しく、小罪は眼鼻を剜り、地牢に数丈の穴を掘って数年幽閉した。臣下との盟いは年ごとに羊・犬・獼猴を殺して行い、三年に一度は大盟として犬・馬・牛・驢を犠牲に誓約した。
- 気候は寒冷で稲は育たず、青稞麦・豌豆・小麦・蕎麦を産し、牦牛・豚・犬・羊・馬を畜う。金銀銅錫も豊富。都城は邏些城といい、屋根は平頭で高いものは数十尺、貴人は氈帳「拂廬」に住んだ。武を重んじ老を賤しみ、戦では前隊が死んでも後隊が進む厳格な軍令があり、敗走者には狐尾を首に懸けて辱めた。父母の喪では断髪し顔を青黛で塗り黒服を着た。賛普の死には殉葬の習慣があり、墓上に大室を建てた。
太宗期、文成公主降嫁まで
- 貞觀八年、賛普棄宗弄賛が初めて朝貢。弄賛は若くして即位し驍武・英略で知られ、羊同・諸羌を服した。太宗は馮徳遐を遣わし撫慰させると、弄賛は突厥・吐谷渾に倣い求婚したが太宗はこれを許さなかった。使者は「吐谷渾王の讒言で許されなかった」と虚偽の報告をし、弄賛は怒って羊同と結び吐谷渾を攻めた。吐谷渾は青海に逃れ、その民畜は掠奪された。
- 弄賛は党項・白蘭諸羌をも破り二十余万の兵で松州西境に迫り、都督韓威が敗れて辺境は騒然とした。太宗は侯君集・執失思力・牛進達・劉蘭ら五万を派し、牛進達の先鋒が松州を夜襲して弄賛を退かせた。弄賛は謝罪し婚姻を再度請い、太宗はこれを許した。弄賛は宰相禄東賛に金五千両ほかの宝物を献じさせた。
- 貞觀十五年、太宗は文成公主を弄賛に嫁がせ、江夏郡王道宗が送婚使となった。弄賛は柏海まで自ら迎えに出て子婿の礼を尽くし、大国の礼儀に感嘆して城邑を築いて公主を住まわせた。国中の赭面(顔を赤く塗る風習)を廃し、氈裘を脱いで唐風の紈綺を纏うようになり、酋豪の子弟を国学に入れて詩書を学ばせた。
- 太宗が遼東遠征から帰還すると禄東賛が祝賀に訪れ、金で鋳造した鵝(高さ七尺、酒三斛を入れられる)を献じた。貞觀二十二年、右衛率府長史王玄策が中天竺に掠われた際、吐蕃は精兵を派して玄策とともに天竺を大破し捷を献じた。
高宗期、祿東賛執政と吐谷渾併合
- 高宗即位後、弄賛は駙馬都尉・西海郡王に封ぜられ、のち賓王に進封された。蚕種や酒・碾・硙・紙・墨の工匠を求め、許された。
- 永徽元年、弄賛が卒し、その孫が幼くして贊普を継いだため国事は禄東賛に委ねられた。禄東賛は文記に通じなかったが明毅で、吐蕃が諸羌を併呑した多くはその謀による。禄東賛には五子(長子贊悉若は早世、欽陵・贊婆・悉多幹・勃論)があり、東賛死後は欽陵兄弟が国政を専らにした。
- 龍朔・麟徳中、吐蕃は吐谷渾と不和になり、吐谷渾を大破。河源王慕容諾曷鉢と弘化公主は涼州へ逃れた。咸亨元年、薛仁貴・阿史那道真・郭待封が十余万で討ったが大非川で論欽陵に敗れ、吐谷渾は全国を失い一部が霊州に内属するのみとなった。
- 上元三年・儀鳳三年、吐蕃は鄯・廓等州を侵し、劉仁軌・李敬玄が禦いだが、敬玄は劉審禮を失う敗戦を喫した。黒歯常之の夜襲で辛くも賊を潰走させた。この頃、吐蕃は羊同・党項・諸羌を併せ、涼・松・茂・巂等州に接し、南は婆羅門、西は亀茲・疏勒の四鎮を陥れ、北は突厥に及ぶ万里の版図を築き、漢魏以来の西戎の隆盛はかつてなかったという。
- 儀鳳四年、賛普が卒し子の器弩悉弄(八歳)が継ぎ、国政は欽陵に委ねられた。永隆元年、文成公主が薨じ、高宗は使者を遣わし弔祭した。
則天期、欽陵の誅殺と辺境の攻防
- 則天臨朝後、韋待価・岑長倩の遠征はいずれも失敗。如意元年、大首領曷蘇の内附を張玄遇が受け入れたが曷蘇は本国に擒えられ、代わって大首領昝捶が八千余人で帰順し葉川州が置かれた。長寿元年、王孝傑が亀茲・於闐・疏勒・砕葉の四鎮を回復し安西都護府を亀茲に置いた。万歳登封元年、孝傑・婁師徳は素羅汗山で欽陵・贊婆に敗れた。万歳通天元年、涼州都督許欽明が戦死。
- 聖歴二年、賛普器弩悉弄は成長すると論巌らと謀り、外征中の欽陵の親党二千余人を誅殺した。欽陵は挙兵に応じず自殺、贊婆は千余人を率いて投降し輔国大将軍・帰徳郡王に封ぜられた。
- 久視元年、長安二年と吐蕃の侵寇が続くが唐は撃退。長安三年、吐蕃は論弥薩を派して和親を求め則天はこれを許した。翌年、馬千匹・金二千両を献じて求婚し、則天はこれも許した。
中宗〜玄宗前期、金城公主降嫁
- 賛普が泥婆羅門討伐中に卒し、器弩悉弄の子・棄隷蹜賛(七歳)が擁立された。中宗神龍元年、告喪の使者が来ると中宗は挙哀した。祖母が孫のため求婚し、中宗は雍王守礼の娘を金城公主として許嫁した。景龍四年、和親の詔が発せられ、以下のような詔文が引かれる(要旨:太宗以来の姻好の由来を述べ、金城公主降嫁により辺境の安寧を図る旨)。
- 中宗は紀処訥・趙彦昭に送使を命じるも辞退が相次ぎ、最終的に楊矩が送使となった。公主は別城を築いて住んだ。
- 睿宗期、李知古の姚州征討策が発端となり吐蕃・党項が離反。楊矩は九曲の地を吐蕃へ与えたことを悔いて服毒死した。
- 開元二年、吐蕃が臨洮・蘭・渭を侵し、薛訥・王晙が武階駅で大破、洮水が流れぬほどの死者を出させた。以後、郭知運・王君㚟が河西節度使として対峙。張説の進言で和平交渉が進むが君㚟は強硬論を唱えた。
- 開元十五年、王君㚟は青海西で吐蕃を破るも、悉諾邏恭祿・燭龍莽布支に瓜州を陥落させられ田元献らが捕らわれた。君㚟は回紇余党に殺され、蕭嵩が反間の計で悉諾邏恭祿を誅殺させた。
- 開元十七年、信安王禕が石堡城を奪回。皇甫惟明の進言で和親交渉が再開し、名悉獵が入朝、赤嶺に境界石が建てられた。吐蕃は毛詩・礼記・左伝・文選を求めたが、正字于休烈は経典・史書が兵略を教えることを理由に反対する上疏(要旨引用)を行うも聴かれなかった。
- 開元二十四年以降、勃律国をめぐって吐蕃と対立。崔希逸が河西節度使として和議を結ぶが、孫誨の讒言で密詔により急襲され、大破したものの信義を失ったとして白狗の祟りで死したと伝えられる。
- 開元二十六年〜二十八年、杜希望・王昱・章仇兼瓊らが新城・河橋・安戎城をめぐり攻防を繰り返し、最終的に章仇兼瓊の内応策で安戎城を奪還、玄宗はこれを大いに喜んだ。
- 開元二十九年、金城公主が薨去。吐蕃四十万が承風堡・河源軍・長寧橋・安仁軍を攻めるが盛希液が撃退。天寶初年、哥舒翰が石堡城を攻略し神武軍と改称した。
天寶末〜粛宗・代宗期、安史の乱と吐蕃の侵攻
- 天寶十四載、賛普乞黎蘇籠猟賛が死し子の婆悉籠猟賛が立った。まもなく安禄山の乱が起こり、河隴の兵を潼関防衛に投入したため辺備が空虚となり、吐蕃は数年で鳳翔以西・邠州以北の数十州を奪った。
- 粛宗元年、吐蕃が朝を請い、鴻臚寺で歃血の盟を結んだ。寶応元年、劍南西山方面でも吐蕃と接触が続いた。
- 廣德元年、吐蕃は涇州・邠州・奉天県を陥れ、郭子儀は退いて長安が陥落。降将高暉の手引きで吐蕃は広武王承宏を擁立し年号を建て、官を置いたが、十五日で退いた。郭子儀は商州へ逃れる混乱の中、王延昌・李萼らの進言で軍を再編し、長孫全緒・第五琦らの計略で長安を奪還した。鳳翔でも馬璘が単騎で敵陣に突入する奮戦で吐蕃を退けた。
- 廣德二年、河西節度楊誌烈は孤城を守れず涼州も陥落。永泰元年、吐蕃は仆固懐恩に誘われ回紇とともに南下したが渾日進の奇襲などで撃退され、白元光と回紇の連合軍が涇陽で吐蕃を破った。代宗は親征を停止し京師の戒厳を解き、宰相らは上表して祝賀した。
(以下、代宗期以降の吐蕃との攻防・和親交渉は次巻に続く。)