出自と栄達
- 太原文水の人、父李希倩は中宗神龍初年の右台監察御史。憕は明経に及第、開元初年咸陽尉。相人劉行善が「後に貴達する者」として憕と鄭巖を挙げたことから張説の妹婿・娘婿として重用され、以後長安尉・監察御史・兵部吏部郎中・給事中を歴任し吏幹で称された。
- 開元二十八年(740年)河南少尹として、尹蕭炅の不法を正し、道士孫甑生の不当な蓄財要求も退けたため両者に恨まれ清河太守に左遷、以後河東太守・尚書右丞・京兆尹・光禄卿・東京留守を歴任した。
安史の乱と殉節
- 天宝十四載(755年)十一月、安禄山が范陽で挙兵すると、東京留守として盧奕・達奚珣らと城郭を修め防備した。禮部尚書を兼ね留守を続けたが、封常清の兵は市井の民で訓練不足であり、賊軍の精鋭には抗しきれず洛陽は陥落。憕は「国の重寄を負う以上、死を避けず官を守る」と盧奕に告げ、賊に捕らえられ盧奕・判官蔣清と共に処刑された。禄山は三人の首を河北に晒したが、平原太守顔真卿がこれを奪い葬った。玄宗は司徒(李憕)・武部尚書(盧奕)・工部尚書(崔無詖)・文部郎中(蔣清)を追贈しそれぞれ子に官を与えた。
子 源
- 子の李源は八歳で賊に捕らえられ七、八年流転したが、洛陽の旧吏の縁で贖われ河南府参軍となった。父の死を悼み終生婚姻・飲酒肉食を絶ち、旧宅の惠林寺に寓居し墓穴を掘って修行のように過ごした。長慶三年(823年)、御史中丞李德裕が「五十年近く禄仕を絶ち貞節を守る」と表彰を上奏、詔で左諫議大夫・緋魚袋を賜ったが、源は年老いて拝礼できないとして官告・服色・絹をすべて辞退し、寺で卒した。
子 彭
- 子の李彭は子の官により州県令長を歴任、その子李宏はさらに卑官に終わったが、孫の景讓・景莊・景溫が元和以降相次いで進士に登第した。
彭孫 景讓
- 景讓は太和中に尚書郎から商州刺史、開成二年(837年)中書舎人、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使、禮部侍郎を経て大中朝に襄州刺史・山南道節度使、吏部尚書、御史大夫に至った。
- 宣宗の舅鄭光の死に朝廷が三日輟朝しようとした際、「外戚と宗室の礼は区別すべきだ」と『開元礼』に基づき諫言し、輟朝を二日に留めさせた。吏部尚書として卒し謚は孝。弟景溫は華州刺史・鎮国軍使、景莊も達官に至った。