舊唐書卷一百八十五上 列傳第一百三十五上 韋機

韋機、雍州万年の人。太宗・高宗朝に西域使節・地方長官を歴任した能吏。檀州に孔子廟を創建し、上陽宮の造営や道士の不法摘発で実務手腕を発揮したが、天后の不興を買った。子孫の嶽・景駿も吏才で知られた。

年表(7件)
  • 貞観中西突厥への使者として同俄設を可汗に冊立し、石国の反乱で3年間帰国できなかった
  • 顕慶中檀州刺史となり孔子廟を創建する
  • 上元中司農卿に遷り、道士朱欽遂の横恣を摘発し天后の不興を買う
  • 儀鳳中家人の盗みに連座して免官される
  • 永淳中白衣のまま園苑検校に召されるが天后に阻まれ復官できず、まもなく卒する
  • 開元17年729年(曾孫景駿)房州刺史に遷り淫祀を除き貢挙を開く
  • 開元20年732年(曾孫景駿)奉先令に転じるが赴任前に死去する

韋機

  • 韋機、雍州万年の人。祖の元礼は隋の浙州刺史。父の恪は洛州別駕。機は貞観中、左千牛胄曹となり西突厥への使いを充てられ同俄設を冊立して可汗とした。折しも石国が反叛し道が絶え3年間帰れなかった。機は衣裳を裂いて経過した諸国の風俗物産を記録し『西征記』と名付けた。帰還すると太宗が蕃中の事を問い、機がその著書を奏したところ、太宗は大いに悦び朝散大夫に擢拝し累遷して殿中監に至った。
  • 顕慶中、檀州刺史となった。辺州にはもとより学校がなかったが、機は生徒を敦勧し孔子廟を創立、七十二子と古来の賢達の図を描きみな賛述を作った。契苾何力が東に高麗を討った際、軍衆が檀州に至ったが灤河が氾濫し師が進めなかったところ、機は資糧を供して数日欠くことがなかった。何力は全軍で還るとこの事を上聞し、高宗はその能を認め司農少卿に抜擢し東都営田を知らせ甚だ委任された。宦官が苑中で犯法したとき、機は杖してから上奏した。高宗はこれを嗟賞し絹数十疋を賜り「今後また犯す者があれば卿がすぐ鞭打ってよい、奏する必要はない」と言った。
  • 上元中、司農卿に遷り園苑を検校した。上陽宮を造り立徳坊曲にあった中橋を長夏門街に移し、時人はその功を省き事を便にしたことを称えた。道士朱欽遂が天后の使いを称し駅伝を馳せて都に至り横恣な振る舞いをしたため、機はこれを囚え密かに「道士が中宮の駆使を仮称し勢いを頼っている、皇明を損なうことを恐れ禍患の兆しとなろう」と奏した。高宗は特に中使を発し機を慰諭したが、欽遂は辺州に配流され天后はこれにより不悦であった。
  • 儀鳳中、機は家人が盗みを犯したことに坐し憲司に劾せられ免官された。永淳中、高宗が東都に幸し芳桂宮駅に至った際、機を召し白衣のまま園苑を検校させた。本官に復そうとしたが天后に阻まれて止まり、まもなく司農少卿事を検校させたところ卒した。
  • 子の余慶は右驍衛兵曹に至り早くに卒した。余慶の子は嶽。

韋機孫 嶽

  • 嶽もまた吏幹で名を知られた。則天の時、累転して汝州司馬となった。則天が長安に幸した際、尚舎奉御に召し拝され、駕に従い京に還った際に召見された。則天は「卿は韋機の孫だ、勤幹はもとより家風であろう。卿の家事は朕はすべて知っている」と言い、家人の名を問い賞慰すること久しかった。まもなく太原尹を拝したが、嶽は日ごろ武を習っておらず辺任を固辞した。これにより旨に忤らい宋州長史に左遷され、海・虢二州刺史を歴任、どこでも威名を著した。睿宗の時、殿中少監として入り甚だ恩顧を承けた。竇懐貞・李晉らが誅殺されるに及び、嶽が交往していたことから姜皎に陥れられ渠州別駕に左遷、やや遷って陝州刺史となった。開元中、潁州別駕として卒した。嶽の子は景駿。

韋嶽子 景駿

  • 景駿は明経に挙げられ、神龍中、累転して肥郷令となった。県の北界には漳水があり、連年氾濫していた。旧堤は水漕に迫っており修築を続けても漂流が絶えなかった。景駿はその地勢を審らかにし南に数里拓いて高地に堤を築いた。暴水が至っても堤の南は無患となり、水が引くと堤の北は肥沃な田と称された。漳水には旧来架柱の長橋があり毎年修葺していたが、景駿は改めて浮橋を造った。これより水患はなくなり、今に至るまでこれに頼っている。
  • 河北で飢饉があったとき、景駿は自ら境内の村閭を撫で必ず賑恤を通じさせ、貧弱な者だけは流離を免れさせた。任を去るとき、人吏は碑を立てて徳を頌した。
  • 開元中、貴郷令となった。県人に母子で互いに訴える者があり、景駿は「私は幼くして父を失い、人が親を養うのを見るたびに終天の分がないことを恨んだ。そなたは温清(親孝行)の地にいながら、どうしてこのようなことをするのか。錫類(善行を及ぼすこと)が行われないのは令の罪である」と言い、涙を流し嗚咽して『孝経』を取り出し習わせた。これにより母子は感悟し、それぞれ改悔を請い慈孝と称されるようになった。
  • 累転して趙州長史となり、赴任の道中肥郷を通ると人吏は驚喜し競って犒餞に来て数日引き留めた。年10余りの童子数人もその中にいたので、景駿は「私がこの令であった頃、そなたたちはまだ生まれていない、旧恩もないのになぜこれほど懇ろにするのか」と言うと、みな「この地の年長者が伝え語るには、県の廨宇・学堂・館舎・堤橋はすべて明公の遺跡だといいます。古人だと思っていましたが、思いがけず親しくお目にかかれて、常より倍して懐かしく思うのです」と答えた。その人に慕われることはこのようであった。
  • 開元17年(729年)、房州刺史に遷った。州は山谷を帯び俗は蛮夷に近く淫祀を好み学校を修めなかった。景駿は初めて貢挙を開き淫祀をことごとく除いた。また狭路を通し伝館を造り旅人はこれを大いに便とした。開元20年(732年)、奉先令に転じたが赴任前に卒した。