舊唐書卷一百八十五上 列傳第一百三十五上 田仁會

田仁会、雍州長安の人。太宗・高宗朝に武功と善政を重ねた地方長官(?–679年)。薛延陀撃破の戦功、旱魃時の祈雨、盗賊討伐、悪徳巫女の摘発などで知られ、没後「威」と諡された。子の帰道も突厥外交や宮廷政変への対処で活躍した。

年表(7件)
  • 聖暦の初め(子帰道)突厥の黙啜への冊立をめぐり閻知微の擅断を諫める
  • 神龍の初め(子帰道)張易之誅殺の政変で千騎を貸さず、事後に免官されるも中宗に忠壮を嘉される
  • 貞観18年644年薛延陀の抄掠を執失思力とともに撃破する
  • 永徽2年651年平州刺史に任じられ善政と称される
  • 麟徳2年665年右金吾将軍に転じ、京城の違法を厳しく摘発する
  • 総章2年669年太常正卿に遷る
  • 儀鳳4年679年死去する(時に年78、「威」と諡される)

田仁會

  • 田仁会、雍州長安の人。祖の軌は隋の幽州刺史・信都郡公。父の弘は陵州刺史で信都郡公を襲爵した。仁会は武徳の初め制挙に応じ左衛兵曹を授けられ、累遷して左武候中郎将となった。貞観18年(644年)、太宗が遼を征し出発した後、薛延陀の数万騎が河南を抄掠したため、太宗は仁会と執失思力に兵を率いさせこれを撃破、数百里追撃し、延陀は身をもって脱走した。太宗はその功を嘉し璽書を降して慰労した。
  • 永徽2年(651年)、平州刺史を授けられ学を勧め農を務め善政と称された。郢州刺史に転じたとき折しも旱があり、仁会は自ら日に曝されて祈祷し甘澤を得た。その年は大熟し、百姓は「父母のように我らを育てる田使君、精誠は天に通じた、田に雨が降り山に雲が出て倉廩は実り礼義が行われた、ただ常にこうあってほしい、貧に患えぬように」と歌った。五遷して勝州都督となった。州界に山賊が険阻に拠り旅人を劫奪していたが、仁会は騎兵を発してことごとく捕殺した。これより外戸を閉ざす必要がなくなり盗賊は跡を絶った。太府少卿として入朝した。
  • 麟徳2年(665年)、右金吾将軍に転じた。得た禄俸に余りがあれば官に納めるため、当時の人はその名を求める行為をやや譏った。仁会は強力で悪を嫉み昼夜巡警し、宮城から衢路に至るまで些細な違法も見逃さず必ず摘発した。毎日庭に百余人を引き、自ら閲罰し寛容することがなかった。京城の貴賤はみなこれを畏憚した。
  • 当時、女巫の蔡氏が鬼道で衆を惑わし、自ら死者を蘇らせられると称し、市中では神明とされていた。仁会はその虚偽を検証し辺境に徙すよう奏請した。高宗は「もし死者が生き返らないなら妖妄であり、もし死者が生き返るならなおさら罪過である」と言い、ついに仁会の奏に従った。
  • 仁会は総章2年(669年)太常正卿に遷り、咸亨の初め右衛将軍に転じ、老齢により致仕した。儀鳳4年(679年)に卒した、時に年78、「威」と諡された。神龍中、子の帰道の縁で戸部尚書を贈られた。

田仁會子 歸道

  • 帰道は弱冠で明経挙に及第した。長寿中、累補して司賓丞となり通事舎人内供奉を兼ねた。しばらくして左衛郎将に転じた。
  • 聖暦の初め、突厥の黙啜が使いを遣わし和を請うと、制で左豹韜衛将軍閻知微を蕃に入らせ立功報国可汗に冊立させた。黙啜がまた使いを遣わし入朝謝恩した際、知微は道でこれに会い緋袍・銀帯を与え、あわせて蕃使が都に入る日には大いに陳設を備えるよう請う表を上げた。帰道は「突厥は恩に背くこと久しいが、過ちを悔いて来朝したのだから、聖恩を待ってその罪を寛やかにすべきです。辮髪を解き衽を削ぐには天の慈しみを稟けるべきです。知微が擅に袍帯を与えたのでは、国家は今後何をもって賜与すればよいのですか。まず旧の服に戻し朝廷の恩を待つべきです。また小蕃の使いが到着するのに大がかりな儀は必要ありません」と上言し、則天はこれを是とした。
  • 黙啜が単于都護府に至ろうとすると、帰道に司賓卿を摂させ迎え労わせた。黙啜はまた六胡州と単于都護府の地を求める奏を上げたが則天は許さなかった。黙啜は深く怨み帰道を拘束し害そうとしたが、帰道は言葉と態度を屈せず、さらに黙啜の求めが飽くことを知らないと責め、あわせて禍福を諭したため黙啜の意はやや緩んだ。折しも黙啜に粟3万石・雑彩5万段・農器3千事を賜り婚姻も許す制が下り、これにより帰道は帰ることができた。帰道は面と向かって黙啜の不利な状況を陳べ防禦を加えるよう請い、則天はこれを容れた。まもなく黙啜は果たして叛し、閻知微を伴って趙・定などの州に入寇した。帰道は夏官侍郎に抜擢され甚だ親任された。累遷して左金吾将軍・司膳卿となり千騎の押を兼ねた。まもなく尚方監に除せられ銀青光禄大夫を加えられ、殿中監に転じてなお千騎を押させ玄武門で宿衛させた。
  • 敬暉らが張易之・昌宗を討った際、使いを遣わし千騎を求めたが、帰道は先に謀に与らなかったため拒んで与えなかった。事が定まると暉らはこれを誅そうとしたが、帰道は言葉を尽くして免れ私邸に帰らされた。中宗はその忠壮を嘉し太僕少卿を召し拝させ、たちまち殿中少監・右金吾将軍に除せられた。1年余りで病没し輔国大将軍を贈られ原国公に追封され、中宗は自ら文を作ってこれを祭った。
  • 子の賓庭は開元中、光禄卿となった。