舊唐書卷一百八十五上 列傳第一百三十五上 權懷恩

權懷恩

  • 権懐恩、雍州万年の人、周の荊州刺史・千金郡公権景宣の玄孫。その先祖は天水から家を移した。祖の弘寿は大業末、臨汾郡司倉書佐であった。高祖が晋陽を鎮めると引かれて留守事を判じ、義軍に従った功により累転して秦王府長史となり太宗の厚遇を受けた。また王世充平定に従い太僕卿を拝した。累封して盧国公となり卒し、「恭」と諡された。父の知譲は爵を襲い官は博州刺史に至った。
  • 懐恩は初め蔭により太子洗馬を授けられた。咸亨の初め、累転して尚乗奉御となり盧国公を襲爵した。当時奉乗の安畢羅が馬の調教に優れ高宗に寵愛されていた。懐恩が奏事の際、畢羅が帝の左右で無礼な戯れをしているのに遭い、退いてこれを40回杖打った。高宗はこれを聞いて嗟賞し侍臣に「懐恩は強い相手も避けない、真の良吏だ」と言い、その日のうちに万年令を拝させた。政は清粛で令行禁止、前後の京県令に及ぶ者はなかった。後に慶・莱・衛・邢の四州刺史、洛州長史を歴任した。
  • 懐恩は姿状が雄毅で束帯した後は妻子も仰ぎ見ることができなかった。歴任した先ではみな威名で下を制し人吏は足を重ねて(畏縮して)立った。まもなく宋州刺史として出た。当時汴州刺史楊徳幹もまた厳粛さで懐恩と名を並べていた。懐恩が汴州を通過した際、徳幹が郊外まで送り、懐恩は新橋の途中に木を立てて車の通行を禁じているのを見て「一言命令すればよいだけなのに、なぜこのようなことをするのか」と徳幹に言った。徳幹は大いに恥じ、時の議論は懐恩に及ばないとした。益州大都督府長史に転じ、まもなく卒した。

懐恩姪 楚璧

  • 甥の楚璧は官が左領軍衛兵曹参軍に至った。開元10年(722年)、駕が東都にあったとき、楚璧は故兵部尚書李迥秀の男齊損、従祖弟の金吾淑、陳倉尉盧玢、京城左屯営押官長上折衝周履済・楊楚剣・元令琪らとともに兵を挙げて反した。楚璧の兄の子梁山(年15)を立て、襄王の男と詐称し光帝と号した。左屯営兵百余人を擁し景風門に梯を掛け城を越えて入り、長楽・恭礼門に拠った。宮城に入り留守・刑部尚書王誌愔を求めたが得られなかった。天が明ける頃、屯営兵は自ら翻り梁山らをことごとく殺した。首は東都に伝えられ、楚璧もともに罪に坐し籍没された。

懐恩叔祖 萬紀

  • 懐恩の叔祖萬紀。萬紀は性が強正で直言を好んだ。貞観中、治書侍御史となり公事で魏徴・温彦博らを弾劾し、太宗は豪貴を避けないことからこれを甚だ礼した。尚書左丞に遷り冀氏男に封ぜられ、再転して斉王祐府長史となった。祐が徳を失うと数々これを匡正したが、ついに祐に殺された(詳細は「祐伝」にある)。祐が死ぬと萬紀に斉州都督・武都公を贈り「敬」と諡した。

萬紀子 玄福

  • 子の玄福は高宗の時、兵部侍郎となった。