舊唐書卷一百八十五上 列傳第一百三十五上 賈敦頤

賈敦頤

  • 賈敦頤、曹州冤句の人。貞観中、累遷して滄州刺史となった。在職は清潔で、朝に入るたびに一族を挙げて赴くも、粗末な車1台と痩せ馬数匹のみで、羈勒(馬具)は縄で作られており、見る者はその刺史とは気づかなかった。貞観23年(649年)、瀛州刺史に転じた。州界の滹沱河と滱水が毎年氾濫し居民を流していたため、敦頤は堤堰を建てることを奏し、これより水患はなくなった。
  • 永徽5年(654年)、累遷して洛州刺史となった。当時豪富の家はみな外に隠田を占有していたが、敦頤はこれを検括して3千余頃を得て貧乏な者に給した。また奸を発き伏を摘発すること神明のようであった。まもなく卒した。弟は敦実。

賈敦頤弟 敦實

  • 敦実は貞観中、饒陽令となり政化は清静で老幼が慕った。当時敦頤は再び瀛州刺史に授けられていた。旧制では大功(一等親)以上は連官しないきまりであったが、朝廷は兄弟がともに職にありともに能名があったため入れ替えなかった。咸亨元年(670年)、累転して洛州長史となり甚だ恵政があった。当時、洛陽令楊徳幹は杖で人吏を殺して威名を立てていたが、敦実は「政は人を養うにあり、義は存撫を要する、生を傷つけること多ければ能があっても貴ぶに足りない」と言い、常に徳幹を抑え、徳幹もそのために少し改めた。咸亨4年(673年)、太子右庶子に遷った。
  • 初め敦頤が洛州刺史であったとき、百姓は共に大市の通衢に碑を立てた。敦実が去職するに及び、再び石に刻んで美を頌し、兄の碑の側に立てた。時人はこれを「棠棣碑」と呼んだ。敦実は後に懐州刺史となった。永淳の初め、老齢により致仕した。病篤くなったとき、子孫が医者を迎えて診させようとすると、敦実は「良医が老いを治せるとは聞いたことがない」と言い、ついに薬を服さなかった。垂拱4年(688年)に卒した、時に年90余。

敦實子 膺福

  • 子の膺福は先天中、左散騎常侍・昭文館学士を歴任したが、竇懐貞らの謀反に預かったことに坐して誅殺された。