薛大鼎
- 薛大鼎、蒲州汾陽の人、周の太子少傅・博平公薛善の孫。父の粋は隋の介州長史であったが、漢王諒の謀反に連座し絳州刺史を授けられていたが諒の敗亡で誅殺された。大鼎は幼かったため死を免れ辰州に配流され、後に郷里に帰ることができた。
- 義旗が初めて建った際、龍門で高祖に謁見し「河東を攻めず龍門から直ちに渡り永豊倉を拠点とし遠近に檄を伝えれば、食も兵も足ります。天府を総べ百二の地に拠るのは、背を撫で喉を扼する計です」と説いた。高祖はこれを深く是とした。しかし将士がみな先に河東を攻めることを求めたため衆議に従った。大将軍府察非掾を授けられた。
- 貞観中、累転して鴻臚少卿・滄州刺史となった。州界に無棣河があったが隋末に埋塞されていた。大鼎はこれを開くよう奏し、魚塩を海から引いた。百姓は「新河が開通し舟楫の利あり、直ちに滄海に達し魚塩至る。昔は徒歩したが今は駟馬を馳せる、美しいかな薛公の徳の広きこと」と歌った。大鼎はまた州界が低湿であることから長蘆・漳・衡などの三河を決して夏の潦水を分泄させ、境内に水害がなくなった。当時、瀛州刺史賈敦頤・曹州刺史鄭德本とともに美政があり、河北では「鐺脚刺史」(鼎の脚のように三人が並び立つ刺史)と称された。
- 永徽4年(653年)、銀青光禄大夫・行荊州大都督府長史を授けられた。翌年卒した。二子あり、克構・克勤という。
大鼎子 克構
大鼎子 克勤
- 克勤は司農少卿を歴任したが来俊臣に陥れられ誅殺された。克構も連座して嶺表に配流され死んだ。