李素立
- 李素立、趙州高邑の人、北斉の梁州刺史李義深の曾孫。祖の駼は散騎常侍。父の政藻は隋の水部郎中で、大業末、淮南への使いの途中、盗賊に殺された。
- 素立は武徳の初め監察御史となった。死罪に当たらない犯法者を高祖が特に殺すよう命じた際、素立は「三尺の法は天下と共にするもの、法が一たび動揺すれば人は手足の置き所を失う。陛下は鴻業を創められたばかりで遠方はなお乱れている、どうして輦轂(天子のお膝元)の下で刑書を棄てられましょうか。臣は法司を忝くしており、旨を奉じられません」と諫め、高祖はこれに従った。これより屡々恩顧を承けた。素立はまもなく喪に丁ったが高祖は担当に情を奪わせ七品の清要官を授けさせようとした。担当が雍州司戸参軍を擬すると高祖は「この官は要なれど清ならず」と言い、次に秘書郎を擬すると「この官は清なれど要ならず」と言い、ついに侍御史に抜擢し「この官は清にしてまた要である」と言った。
- 貞観中、累転して揚州大都督府司馬となった。当時突厥・鉄勒の部族が相次いで内附し、太宗はその地に瀚海都護府を置いて統べ、素立を瀚海都護とした。また闕泥孰の別部がなお辺患であったが、素立は使いを遣わし招諭して降した。夷人はその恵みに感じ馬牛を素立に贈ったが、素立は酒一杯だけ受けて残りはすべて返した。廨舎を建て屯田を開いた。しばらくして綿州刺史に転じた。永徽の初め、蒲州刺史に遷り、任地に赴く際、余った糧儲や什物はすべて州司に収めさせ、自分の書籍だけを持って去った。道中で病没し、高宗はこれを聞き特に朝を1日廃し、「平」と諡した。
素立孫 至遠
- 孫の至遠は重い名声があった。長寿中、天官郎中となった。内史李昭德はその才を重んじ則天に薦め、流内選事を知るよう擢用させた。ある人が至遠に私恩を謝すよう勧めると、至遠は「李公は公の理由で私を用いたのだ、どうして私謁できようか」と言い、ついに謝さなかったため昭徳の恨みを買い、事に坐して壁州刺史として出され卒した。
至遠子 畬
- 至遠の子畬は初め汜水主簿となった。処事は敏速で評判があり、村童や廝養(下働き)の輩でさえ一度見れば代替の姓名を覚えていた。累転して国子司業となった。母に事えること甚だ謹み、閨門は睦まじく累代同居した。毎年の年中行事の際には長幼男女みな礼節を守った。妻が卒したとき、母はすでに病臥していたため、畬は母の心を傷つけることを恐れ、家人に哭声を母に聞かせないよう約させ、朝夕の定省でもその憂念の色を見せなかった。士友はこれを大いに称賛した。母が亡くなると悲しみのあまり体を損ない、喪中に卒した。
至遠弟 從遠
- 至遠の弟從遠は景雲中、黄門侍郎・太府卿を歴任した。
素立從兄子 遊道
- 素立の従兄の子遊道は、則天の時、官は冬官尚書・同鳳閣鸞台三品に至った。