李君球
- 李君球、斉州平陵の人。父の義満は隋の乱に遭い宗党を糾合し村閭を保固し外盗が侵逼できなかった功により累進して斉郡通守を授けられた。武徳の初め、遠く誠款を申し出て詔でその宅を譂州とし総管に拝され平陵郡公に封ぜられた。
- 君球は幼くして任侠を好み書籍にもやや通じた。貞観中、斉州都督斉王祐が州城で兵を挙げ乱を起こすと、君球は兄の子行均とともに県城を守った。事が平定されると太宗はこれを嘉し遊撃将軍に擢用し、本県を全節県と改めた。君球は累進して左驍衛・義全府折衝都尉に補された。
- 竜朔3年(663年)、高宗が高麗征伐を計画すると、君球は上疏して諫めた(内容は「病んだ心は緩やかな声を出せず、急な事は安言できない、慈しみ深い者は情を隠せない、君の禄を食む者は君の事に死ぬべきであり、臣が陛下の禄を食む以上どうして身を惜しめようか。『司馬法』に『国が大きくとも戦を好めば必ず滅び、天下が安泰でも戦を忘れれば必ず危うい』とある。兵は凶器、戦は危事であり聖主明王はこれを重んじて行う。人力の尽きること、府庫の枯渇、社稷の危うさ、中国の患いを生ずることを恐れるためである。昔、秦の始皇帝は戦を好んでやまず国を失うに至った、これは内を愛さず外に務めたためである。漢の武帝は遠く朔方を討ち万里に及び南海を広く拓いて8郡に分けたが、ついに戸口は半減し国用は空虚になり、末年には哀痛の詔を発し自らの過ちを悔いた。高麗は辺境の小醜で山海の間に潜んでおり、その人を得ても聖化を彰すには足らず、その地を棄てても天威を損なうことはない。どうして中国の人を疲れさせ府庫の実を傾け、男は耕耘できず女は蚕織できないようにしてよいものか。陛下は民の父母でありながら惻隠の心を垂れず、有限の資を無用の地に貪ろうとしている。仮に高麗が滅んでも、兵を発し鎮守しなければならず、少なければ威が足りず多ければ人心が不安になり、これは転戍に疲れ万姓が生きる楽しみを失うことになる、万姓が楽しみを失えば天下は敗れ、天下が敗れれば陛下はどうして安泰でいられようか。それゆえ臣は、征するより征しない方がよく、滅ぼすより滅ぼさない方がよいと考える」という内容)。上疏は容れられなかった。
- まもなく蔚州刺史に遷ったが赴任前に興州刺史に改められた。累遷して揚州大都督府長史となった。政治は厳粛を尚び人吏はこれを畏れ盗賊は跡を絶ち、高宗はしばしば書を降して労い勉めさせた。吐谷渾が塞を犯した際、君球が日ごろから威重があったことから霊州都督に転じ、まもなく官にて卒した。