出自と初任
- 虢州閿郷の人、隋の礼部尚書楊希の曾孫。幼少期は数歳まで話せなかったが、相者は「大器の相」と評した。平棘令として善政の誉れを得、以後蘄・蒲・晉・魏・宣・許の六州刺史、涼・梁二都督、荊府長史を歴任し、清廉な政績で九度昇進した。
張柬之との謀議と易之誅殺
- 長安年間、荊州長史を交代した張柬之と長江で舟中談笑した際、則天の簒奪と武氏専権を語り、元琰は復辟の志を示した。柬之が政事を執ると右羽林将軍に引き立て、「かつての江中の言を覚えているか」と語った。李多祚らと結び、張易之兄弟の誅殺を計画・実行し、雲麾将軍・弘農郡公・食実封五百戸を得、鉄券を賜り十死を免ぜられた。
- 張柬之・敬暉らが武三思に排斥されると、元琰は先んじて出家を願い官爵・実封を辞したが中宗は許さなかった。敬暉は元琰の胡人風の髭を戯れに揶揄したが、元琰は「功成り名を遂げれば退かねば危うい」と答え、暉は不安を覚えた。
- 敬暉らが罪を得た際、元琰は先見の明により難を免れた。金紫光禄大夫・衛尉卿に転じ、李多祚誅殺の際にも連座で投獄されたが、中書侍郎蕭至忠の弁護で免罪、光禄卿に転じた。景雲年間、官爵の削減を申し出て父への追贈を請い許された。睿宗即位後は刑部尚書・魏国公に至り、開元初年に太子賓客で致仕、開元六年(718年)七十九歳で卒した。
元琰子 仲嗣