鄆州掌握と対汴戦
- 朱瑄は宋州の人。父慶は塩の密売で法に触れ、瑄は青州に逃れ王敬武の牙卒となった。中和初年、黄巣が長安を占拠すると天下に兵が命じられ、敬武は牙将曹全晸に三千の兵を率いて関西の難に赴かせ瑄を軍候とした。青州が急を告げると敬武は全晸を呼び戻したが、その道は鄆州を通り、鄆帥薛崇が草賊王仙芝に殺され鄆将崔君裕が権知州事となっていたのを、全晸は兵が寡少と知り襲って君裕を殺し鄆州を占拠し留後を自称した。瑄はその功により濮州刺史を授かり牙軍を留めて率いた。
- 光啓初年、魏博の韓簡が曹・鄆の併合を図り黄河を渡って鄆州を攻めた。全晸が逆戦して魏軍に敗れ戦死すると瑄は残兵をまとめて州城を守った。韓簡が半年攻めても抜けず、魏軍が乱れて退くと朝廷はこれを称え節鉞を授けた。
- 瑄には三万の衆があり、弟の瑾は三軍随一の勇者で天下を争う志を持っていた。秦宗権の勢威が盛んな頃、しばしば鄭・汴を侵し朱全忠は苦境にあり瑄に救援を求めた。瑄は朱瑾に出師させ秦宗権を破り、全忠と瑄の関係は非常に厚くなった。
- 全忠は狡猾で信を裏切りやすく隣藩を狙っていた。宗権が誅された後、急ぎ徐州を攻め、時溥が瑄に援を求めると、瑄は全忠に書を送り溥を許すよう請い全忠は表向き承諾した。瑄は全忠への恩義から使者を送って責め、朱瑾にも溥を援けさせた。徐・泗が平定されると全忠は兵を移して鄆州を攻め、三四年の間毎年春秋に境を侵し掠奪した。民は耕織できず捕虜となった者は十のうち五六に及び瑄の防備は尽きた。景福末年、瑄は弟瑾と両鎮の兵を合わせ魚山下で汴軍と大戦したが瑄・瑾ともに敗れ兵は壊滅した。汴将朱友裕が長い塹壕で包囲し、乾寧四年正月、城中の食糧が尽き瑄は妻の栄氏と共に脱出したが中都で野人に殺され首は汴州に送られた。栄氏は汴州で尼となった。
朱瑄の母を同じくする弟 朱瑾
- 朱瑾は瑄と母を同じくする弟で驍勇果敢に戦った。乾符末年、朝廷が将軍斉克譲を兗州節度としたのに対し、瑾はこれを奪おうと克譲に婚を求め、迎えの夜に勇士を伴い婚礼の夜に不意を突いて克譲を逐い城に拠り留後を称した。朝廷はやむを得ず節鉞を授けた。朱瑄が平定された後、汴人が兗州を攻め食糧が尽きると瑾は城を出て食を求めたが、戻る際に別将に阻まれ入城できず、淮を渡って楊行密に身を寄せた。行密は厚遇し壽州刺史として用い、清口で汴軍を大破し以後全忠は淮を渡って兵を出すことができなくなった。瑾は楊溥の時代に謀反を企て、徐知訓に殺された。
史論
- 史臣曰く:疾風に勁草を知り、世乱に忠臣を見るとは、まことにこの言の通りである。国運が衰え黄巣が僭越した際、藩鎮の中で勤王を唱えた者の多くは名ばかりで実がなかった。ただ王重榮は近関で賊の使者を斬り、王處存は安喜で義兵を挙げ、身を投げ出して涙し禍患を顧みなかったため義徒が雲のごとく集まり逆党の勢いは窮した。冕を服し軒に乗り家を伝えるにふさわしいはずであったが、重榮は峻法に厳しく恩情に薄かったため禍いが輿台(下僕)から発した、まことに悲しむべき横死である。高駢は禁旅から身を起こし功名を立てながら賊を弄び妖に惑わされ狼藉を招いた、後世への戒めとすべきである。朱瑄・時溥は正しい道で得たものでなくもとより凶終は当然、朱瑾もこの狼のような心をもってどうして虎口を逃れられよう。王綱の乱れがここまでの群盗を生んだこと、また何を言えようか。
賛
- 賛に曰く:王者が運を保つには、安きにあって危うきを慮るべきである。徳を以て処さねば、盗に窺われることになる。天地がひっくり返り民は流離した。高駢の上疏を読めば、涙せずにはいられない。