継承と治世
- 韓允忠は魏州の人、旧名は君雄で懿宗が今の名を賜った。父国昌は本州で右職を歴任、会昌中、何弘敬に従い劉稹を破った功で貝州刺史・兼御史中丞となり、允忠の栄達により兵部尚書を累贈された。允忠は若くして軍門に仕え裨校に進み、潞州の役にも従軍した。咸通十一年、何全皞が軍衆に殺され允忠が帥に推された。時に僖宗は普王として詔を降し遙領節度とし、允忠に左散騎常侍・兼御史中丞・節度観察留後を授けた。数月で検校工部尚書・魏州大都督府長史・魏博節度観察等使に転じ、検校司空・同平章事に累加された。乾符元年十一月に卒した。享年六十一、太尉を累贈された。
韓允忠の子 簡――拡張と敗死
- 子簡は允忠の初任時から節度副使であった。乾符初年、検校工部尚書に累官、允忠没後、節度観察留後に起復し、一月余りで検校右僕射を加えられ、後に侍中に累加され昌黎郡王に封じられた。
- 黄巣の乱に際し諸葛爽が偽命を受け河陽節度使を称した。僖宗が蜀に在り群盗が蜂起する中、簡は六州を有し甲兵強盛で僭乱の志を抱き、疆域を広げようと河陽を攻め諸葛爽を敗走させた。簡は兵を留め守らせつつ邢・洺を掠めて帰り、さらに鄆州を攻めた。鄆帥曹全晸は戦って敗死。鄆将崔君裕は残兵をまとめ鄆州を守った。簡はその城を半年攻めても落とせず、河陽が再び諸葛爽に襲われたため、まず君裕を討ち次いで河陽に及ぼうと鄆に至ると君裕は降った。再び河陽を攻めようと新郷に至った時、爽の軍に逆襲され敗れた。簡は単騎で逃げ帰り憂憤のうちに背に疽を発して卒した。中和元年十一月のことである。